沖縄遊撃隊
昭和20年4月時点において、沖縄守備軍第32軍の編成は以下の通りであった。 第32軍司令部 司令官・牛島満中将 参謀長・長勇中将 高級参謀・八原博通大佐 独立混成第44旅団→旅団長・鈴木繁二少将 第5砲兵司令部 →司令官・和田孝助中将 海軍陸戦隊 →太田実海軍少将 その他 (以上は第32軍司令部直轄軍) 第24師団 →師団長・雨宮撰中将 第62師団 →師団長・藤岡武雄中将 第28師団 → 師団長・納見敏郎中将(宮古、八重山に配備) 陸軍=87,640人、海軍=約10,000人、防衛隊=約20,000人、総計約116,400人が日本軍側の 兵員数であった。それに対して米軍側は、当時の沖縄人口を越える548,000人を送り込んだ のであります。 戦闘の結果は、日本軍側の戦死者は94,136人、米軍は12,520人となった。ここでいう日本軍側の戦死者というのは一般住民の非戦闘員は含まれておりません。それは約150,000人となり、沖縄戦における総戦死者は244,136人となっております。 しかし、沖縄戦においてはこの正規軍の他に、大本営直属の遊撃隊が密かに送られていたのであります。彼らは第32軍とは目的が根底から違っていた。「沖縄は本土決戦の捨石」という観点からすれば、正規軍が壊滅した後の敵に関する情報収集は重要となる。 その情報収集と、正規軍敗退後のゲリラ戦、敵後方撹乱のために彼らは送られたのであります。したがって、玉砕戦法は許されず、したたかに生き残って敵を混乱に陥れ、貴重な情報を大本営へ送るのが彼らの任務であった。 大本営による遊撃隊は第4遊撃隊まで作られている。第1遊撃隊は昭和17年ニューギニアで、第2遊撃隊はフイリッピンで編成されております。小野田少尉が所属していたのがこの第2遊撃隊であります。 第3と第4遊撃隊は沖縄戦のために編成された、ということになります。彼らは陸軍中野学校卒業のエキスパート揃いで、兵員構成は在郷軍人や、鉄血勤皇隊でありました。第3遊撃隊は村上治夫大尉を隊長として、約500名からなり、名護、羽地方面の米軍を混乱させた。 第4遊撃隊は岩波壽大尉が隊長で393人、恩納、金武、宜野座方面へのゲリラ戦を展開させた。彼らは機関銃や小銃、擲弾筒(てきだんとう)の他に爆薬を携帯し、道路や橋など、敵の重要地点を爆破したりもした。 このような残地諜報部隊は、その任務を隠すために「護郷隊」と呼ばれていた。この忍者顔負けの神出鬼没の攻撃に、米軍は神経を苛立たせ、避難収容所の一般住民はさらに不安感を募らせる毎日となった。 この二つの遊撃隊が完全に消滅したのは、戦争終結からかなり経ってからで、第4遊撃隊が10月2日、第3遊撃隊が翌年の昭和21年1月3日であった。 当時4歳だった私は母に手を引かれジャングルの中を歩いていた。母が「戦争が終わった・・・」とつぶやいた時、わけの分からない熱いものが、全身を強くかけめぐったのを、今でもはっきりと憶えている。 ところで、戦争が終わって、子供たち同士、山で椎の実を拾っていたとき、突然、恐い顔の兵隊が現れた。全身血まみれで、腕の傷口が大きくめくれていた。 「ばか者ども、静かにしろ! 敵に気付かれたらどうするか!」 彼はそう怒鳴った後、再びジャングルの奥深くへ消えていった。今、考えると彼はこの遊撃隊の一人であったと思われます。