カテゴリ:日本映画人列伝
こんばんは、映画狂のモイラでございます♪
本日から時々、「日本映画人列伝」と称して、 文字通り、日本映画に貢献した人々について、 駄文を綴ってゆきたいと思います。 ひとことお断り‥‥ このブログでは、あくまでモイラの記憶によって文章が綴られるので、 人物について誤った記載があるかもしれませんが、 その点は著者の知識不足とご了承下さい。 最初にとりあげるのは、いつも自信たっぷりで大風呂敷を広げていたことから、 「永田ラッパ」と呼ばれた永田雅一(敬称略)。 この人はまったく、絵に描いたような昔の活動屋ですね。 少年時代にヤクザと関わって、日活に入社したものの、 退社して自分で映画会社を作ったのですが、うまくゆかず、 大谷竹次郎の口添えで、新興キネマの撮影所長になるのですが‥‥ この時、昭和はやっと二桁になり、中国大陸ではドンパチの最中。 そして、日本の映画会社同士もドンパチやってて、 そんなどさくさの中、昭和17年、大日本映画製作(のちの大映)を設立。 初代社長として、流行作家の菊池寛を立てたのです。 昭和22年には、自らが大映の社長に就任。 昭和26年に製作した「羅生門」は、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞。 昭和28年に製作した大映初のカラー作品「地獄門」は、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。 名プロデューサーとしての名声を、国内外に高めてゆきました。 昭和28年、日本映画の衰退の一因とされる悪名高き五社協定締結のリーダーとなり、 会社専属の監督・俳優の引き抜き、他社への貸し出しの禁止を打ち出しました。 これが命とりでしたね。 他社から猛烈なラブコールがあったスター女優・山本富士子が 五社協定に承服できずに退社。 次いで、同じく五社協定を不服に思っていた田宮二郎と衝突し、ほとんど感情的な理由で解雇。 このあと、大映の看板役者たちは、次々歯が抜けるようにいなくなるのです。 叶順子(引退)、長谷川一夫(引退)、最後の切り札だった市川雷蔵の病死‥‥ もともと小屋(映画館)の数が少なく、製作主導だった大映は、 テレビの台頭も手伝って、みるみる興行成績が落ちてゆきます。 70年代に入ってからは、松坂慶子、関根(高橋)恵子などの新人を脱がせた「十代の性」路線で食いつなごうとしたものの、 '71年(昭和46年)12月、ついに倒産となり、 永田ラッパは債権者の群れから逃れるように慶応病院に緊急入院。 「ガメラ」シリーズのシナリオを担当した高橋二三氏は、 未払いのギャラを取り立てに、永田ラッパが入院した特別個室に駆けつけた時、 勢い余って病室のドアを壊してしまい、逆に病院から修理代を請求されたそうです。 活動屋らしい放漫経営、テレビの躍進、製作費をかけた大作主義‥‥ もう少し時代の流れが読めたら、慶応病院に逃げ込まずにすんだんでしょうねえ。 しかし、転んでもただでは起きぬこのおっさん、 のちに永田プロダクションを設立し、高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」で、 映画界にカムバック! この映画は中国で大ヒットとなりました。 日蓮宗の熱心な信者でもあった永田雅一は、 '79年には、萬屋錦之介主演で「日蓮」を製作。 そして'85年、映画も顔負けの波乱万丈の人生に幕を閉じました。 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 6, 2023 05:26:44 PM
コメント(0) | コメントを書く
[日本映画人列伝] カテゴリの最新記事
|
|