カテゴリ:日本映画人列伝
こんばんは。そしてお久しぶりです。映画狂のモイラでございます! モイラは今年の4月半ばから、先月末まで、 持病が悪化して、ブログをずっと休んでいましたが、 今はだいぶ病状も良くなったので、再開することにいたしました。 実は今日、モイラは新幹線に乗って、福島県須賀川市にある 円谷英二ミュージアムを訪れたんですよ! 特撮映画ファンならば、誰もが一度は訪れたい、特撮の聖地です! 初代ゴジラの着ぐるみや、モスラの卵の模型、「地球防衛軍」に出てくるロボット・モゲラの模型などなど 特撮ファンの垂涎の的そのものの展示物でいっぱいの、素晴らしいミュージアムです! しかも、入場料は無料なんですよ!! これは行かずにはいられません! ……ってなわけで、今夜は「特撮の神様」と呼ばれ、 世界にその名をとどろかせた円谷英二大先生について、駄文を書かせていただきますね!! 円谷英二大先生は、1901年(明治34年)の七夕に、 福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で、糀業を営む商家に生を受け、 尋常小学校の頃は、自宅敷地内の蔵にこもって水彩画を描く どちらかといえば内向的な少年でしたが、 その水彩画の出来栄えは、大人も驚くほどのものだったそうです。 そして9歳の頃、日本が初めて飛行機の公式飛行に成功すると、 英二少年は「将来は操縦士になりたい!」と強く思い立ち、 模型飛行機作りに夢中になるのでした。 その一方で、当時は活動大写真と呼ばれていた映画の映写メカニズムに並々ならぬ興味を抱き、 なんと小学生にして、巻紙を使ったフィルムで短編映画を作ったんです!(すげえ!!) やがて尋常小学校の高等科を卒業すると、飛行機への情熱がますます高まり、 思い切って上京して、家族の猛反対を押し切って、 創立したばかりの日本飛行学校の第一期生として入学するのですが、 同校にあった飛行機2機が事故と天災で無くなってしまい、学校は閉鎖、 英二少年は飛行機乗りになる夢破れて、意気消沈。 今度は神田の電機学校(現:東京電機大学)の夜間部に入学し、 叔父の知人が経営する玩具製作会社の嘱託考案係となり、 自動スケート(足踏みギア付きの三輪車)や、玩具電話(実際に通話可能な電池式の電話)など、 ユニークな玩具の発明に明け暮れました。 英二少年は19歳で電気学校を卒業すると、 自分が発明した自動スケートや玩具電話などを特許申請するや、 当時500円という(今で言うといくら?)多額の特許料が入り、 その祝いに玩具製作会社の社員達を引き連れて、飛鳥山の花見に繰り出した時、 たまたま隣席にいた映画会社・天然色活動写真株式会社(天活)の社員達と、酒の上で喧嘩を始め、 英二少年は慌ててその仲裁に入りました。 そして、それがきっかけで英二少年は天活の社員に認められ、 天活に入社し、キャメラマンを志すようになったのです。 酒の上での喧嘩の仲裁が、のちの特撮の神様の映画界デビューでした。時は1919年(大正8年)。 1920年(大正10年)、天活は国際活映に吸収合併され、 円谷英二青年は、国活巣鴨撮影所のキャメラマン助手となった時、 日本で初めて飛行機による空中撮影を、見事に成し遂げたことで、 あっという間に、助手から本物のキャメラマンとなりましたが、 すぐに兵役に就かされ、22歳で除隊となるものの、 東京の撮影所は関東大震災で壊滅状態となり、 多くの映画会社が京都に撮影所を移転させたことで、英二青年も京都に移住し、 1926年(大正15年)、25歳の時、衣笠貞之助監督の「狂った一頁」(サイレントの大傑作ですよ!)の撮影助手を務めました。 そして1927年(昭和2年)、林長二郎(長谷川一夫)初主演作「稚児の剣法」(監督:犬塚稔)で撮影を担当、 多重オーバーラップなどの、独自の特殊撮影の開発を取り入れた効果が、大絶賛されたのです! 以後、撮影セットの奥行を出すための背景へのマット画の合成、 ミニチュア合成場面の活用など、のちの特撮技術に通じる技法を積極的に行いました。 そして1933年(昭和7年)に京都の映画人たちと日本カメラマン協会を結成し、 犬塚稔監督とともに、日活太秦撮影所に引き抜かれるのですが、 この年に公開されたアメリカ映画「キング・コング」に、ものすごい衝撃を受け、 そのフィルムを独自に全巻取り寄せるや、ひとコマひとコマを分析して、特撮の研究に没頭したのです。 1935年(昭和10年)、英二先生34歳の時、半年間、連合艦隊の練習艦に乗船し、 ハワイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、 艦隊の練習生の実習風景の長編記録映画「赤道を越えて」を演出し、 これが監督第1作となりました。 翌年、ナチス・ドイツとの合作映画「新しき土」では、 精巧なミニチュアによる天変地異を、持ち前の特撮技術で見事に撮影し、 並み居るドイツの映画人たちを唸らせたそうです。 1937年(昭和12年)、英二先生36歳の時、東宝映画株式会社が設立され、 英二先生は妻子とともに、東宝が用意した東京・祖師谷の家に移り、 当時、日本が戦時下に入ると、軍隊や国民の士気を高める国策映画・「皇道日本」、「海軍爆撃隊」などを撮りました。 「海軍爆撃隊」では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮り、 日本映画史上初の「特殊技術撮影」のクレジットが冠されたのです! そして、1942年(昭和17年)には、この超名作が英二先生の手によって作られるんですよね! この映画のパール・ハーバー空爆のシーンは、とてもミニチュア・セットで撮影されたとは思えないほど 迫力満点で、手に汗握りました。 しかし、長かった太平洋戦争が終わって数年後の1948年(昭和23年)3月、 円谷英二大先生は、連合国軍最高司令総司令部から、 「戦時中に戦意高揚映画の製作に加担した」とのかどで、東宝を追放されてしまいました。 フリーとなった英二大先生は、祖師谷の自宅に「円谷特殊技術研究所」の看板を掲げ、 大映京都、新東宝、松竹大船などの映画の特殊技術撮影のパートを担当することで、 なんとか生活していたそうです。 翌1949年(昭和24年)には、大映京都撮影所で、「透明人間現わる」の特撮を任され、 見事な技術で、これが円谷英二大先生の戦後初の復帰作と呼ばれましたが、 大先生としてはその出来栄えに満足できず、大映への入社を断念します。 けれど、英二大先生は1952年(昭和27年)2月に、公職追放解除を受け、東宝に復帰。 翌1953年(昭和28年)に、大金を投じて製作された戦記映画「太平洋の鷲」の戦闘シーンの特撮を任され、 その後、長きにわたって名コンビを組むこととなる監督の本多猪四郎氏と知り合うのです。 そして、1954年(昭和29年)、英二大先生53歳の時に、 のちに世界的な大スターとなる「ゴジラ」が作られました! この日本初の本格的特撮怪獣映画は、大大大ヒットし、 当時の日劇では、観客の列が何重にも取り囲んだそうです。 昭和のゴジラシリーズ、超絶リアルで面白いですよね!! そして、1960年(昭和35年)の東宝オールスターキャストの超大作 「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」>では、 砧撮影所に三千坪の特大プールを作るほどの、リアルで精緻な特撮を行ったのです。 翌1961年(昭和36年)、英二大先生還暦の時には、「モスラ」が世界同時公開され、「世界のツブラヤ」と呼ばれるようになるのです。 モイラの夫はこの映画が大好きで、子どもの頃、インファント島が実在すると思って 世界地図を丹念に見たことがあるそうです。 そして1963年(昭和38年)、英二大先生は東宝との専属契約を解除し、 株式会社円谷特技プロダクションを設立、 テレビ界に進出し、今もなお多くのファンを生んでいるウルトラシリーズの製作に着手するのです。 世界中に怪獣ブームを巻き起こし、「特撮の神様」とまで呼ばれた円谷英二大先生ですが、 1970年(昭和45年)1月25日、静岡県伊東市の別荘で静養中に、 気管支喘息の発作に伴う狭心症により、天に召されました。 常に新しいことに挑戦し、特撮にかけた、68年の激動の生涯でした。 にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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