【粗筋】
風呂敷包み一つを抱え、駕籠屋の紹介で北の新地の茶屋にあがった老人がいた。入ったとたんに、駕籠賃と祝儀の合わせて2両を立替えさせたのを皮切りに、見習いの定どん10人分の10両、舞妓15人の15両、芸者衆20人、幇間30人……と、次々に立替えさせる。奉公人47人分に50両というところで、帳場が断った。若い衆の喜助がは自分の番になって断られてがっかりしながら、老人に報告すると、風呂敷鼓包みから小判を出し、これまでの立替え分を倍にして返し、残った小判は座敷にばらまいて帰る。
驚いた喜助が後を付けると、老人が帰ったところが鴻池の本宅。鴻池の人なら知っているはずなので、店の者に話を聞いてみると、当家の妹が嫁入りをした先の和泉の暴れ旦那で、「もし最後の50両を断らなかったら福の神が舞い込んだも同然だったが、断ったので二度と足を踏み入れないだろう」という。
報告を受けた茶屋の主人が旦那の滞在を調べると、盆の14日に大阪中の鰹節を買い占めて屋台を作り、きれいどころを乗せてねり歩き、「ぜひまたお越しを」と挨拶をした。千両箱を用意して待っていると、2、3日たって例の老人が風呂敷包みを手に現れた。
「お待ち申しておりました。ご用だて申します金額(たか)は……」
「いや、ちょっと、煙草の火が借りたいのじゃ」
【成立】
いかにも上方らしい噺だが、東京では林家正蔵(8)が桂三木助(2・上方の人)から教わって得意としていた。寄席では「莨の火」と書く。
【一言】
S君と二人で「お客にしてくれますかの」と申し出たら、さあさあどうぞと歓迎されて、奥まったお座敷に通された。「おい、ここで5両のお立替だ」「そうだな、このぶんだったら、一万や二万のお立替えは二つ返事かもしれねえぞ」と、ヒソヒソ内証話をしただけで、さすがにそこまでの図々しさはなく、お酒とお料理を堪能してから、こわごわ「お勘定を」と命じると、若い女将が現れて、「のちほどで結構でございます。ええ、いつでもよろしゅうございます」ときたのにはおどろいた。「おおようなもんだねえ」「俺たちがニセの名刺でも渡してたらそれっきりだもんな」「ことによると、社用族じゃないお客はタダなのかもしれねえぞ」「請求書なんて下司なものは置くってこないんじゃなかろうか」と、S君と勝手なことをほざきながら旧万八こと亀清楼を出たが、残念でした、五日後に、きちんと紙きれが送られてきた。(江國滋)
● 東京に移すに際し、講釈の悟路軒圓玉(1)さんの所に相談に行って、主人公を紀文と同じような遊び手の奈良茂(ならも)にして、柳橋の万八を舞台にしたんです。(林家彦六:最初はお酌を登場させていたが、岡本綺堂の随筆で柳橋にお酌はいないとあったことであわてて訂正したという。借りる金は20両で止まる。これは江戸と上方の経済の違いを考慮して改めたもの)
【蘊蓄】
大阪で鴻池の一族という老人「泉州佐野の飯さん」は、実在の回船業者で、食左太郎(めしのさたろう)という人物。紀州の殿様が参勤交代の途中で突然立ち寄って食事を所望したところ、即座に千人分を出し、「食」姓を許された。鴻池と姻戚関係にあったのも事実。
東京の方の奈良茂は奈良屋茂左衛門(?~1714)、日光東照宮の修理用材木を一手に請け負って巨富を築き、合成な生活ぶりが話題となった。遺産は13万両余りという。孫の茂左衛門の代以降は家運も衰えたが、幕末まで一流店として存続した。