【粗筋】
市川団十郎の弟子の団子兵衛、連日雑用に追われて帰りが遅く、長屋の木戸を開けてもらうのに大家を起こすのが日課になっているので、大家の方で追い出しにかかった。
そこで、団子兵衛の方から菓子折りを手に、
「今度の舞台では師匠の団十郎と共演することになりました」
と挨拶に行くと、大家の方ではすっかり機嫌を直して、
「路地はいつでも開けてあげるから、しっかりおつとめなさい」
と激励してくれた。ところが、普段は芝居など見ない大家が、団子兵衛が出ているならと見物に出掛けてしまう。『清水清玄』の舞台だが、どう探しても団子兵衛は出ていない。どうしたのかと思っていると、庵室の場で淀平に投げ飛ばされ、下敷きにされたのが団子兵衛。四つんばいになったとたんに大家と目が合って、
「おや団子兵衛さん」
「大家さん、今夜も路地をお願いします」
【成立】
安永2(1773)年『俗談口拍子』の「雪の夜の大屋」が直接の原話と思われる。文化4(1807)7年喜久亭壽暁のネタ帳『滑稽集』に「ばんニもうし とんだり」「こん夜ハとんだり」とあるのがこの噺である。「団子平」「団子兵衛芝居」とも。柳家禽語楼の「きゃいのう」も同じ人物名を用いている。
『清水清玄』は、文化14(1817)年初演の鶴屋南北(4)作『桜姫東文章』の一場面。鎌倉新清水寺の清玄という僧が、吉田家の息女・桜姫に邪恋を抱いて破戒、寺を追放された後、忠義の奴・淀平に殺されるがなお怨霊として姫につきまとうという話。
落語では、「清玄という坊主が桜姫に会いたがったが、会えなかった。坊主と桜じゃ絵が違う」という、花札を取り込んだくすぐりがあるほどだが、芝居があまり通ったものではなくなっており、「団子兵衛」も演じられなくなっている。
【一言】
「住みかへてみても浮世は鍋の尻 苦々せぬ日は一日もなし」という狂歌を枕にふってから、この芝居ばなしにはいることにしています。(桂文治(6))
【蘊蓄】
市川団十郎(7)(1791~1859)、天保11(1849)寝ん伎に能楽を導入して『勧進帳』を創演、歌舞伎十八番を制定したが、1842年天保改革の贅沢禁止令で江戸追放の重刑に処せられると、息子に八代目をゆずり、自分は海老蔵、白猿などの芸名で上方や名古屋の舞台に立った。