ベルリオーズ:4「アカデミーとの闘い」
「恋に破れたベルリオーズ、作品に心血を注ぐ」ベルリオーズ:4「アカデミーとの闘い」 さあ、忘れてはならないのは、ローマ大賞だ。 過去、二度の挑戦でダメだった彼は、三度目の挑戦を試みた。一八二八年、さすがにアカデミーも彼を認めざるを得なかったが、あまりに斬新で、はっきり言えば先生の教えないような楽器の使い方、和音の使い方である。こんなものを優勝させると、自分たちの音楽が古臭いものだということを認めることになるのだ。 それでも結局二等賞を与えたのは、彼の音楽を認めざるを得なかったのだろう。いや、すでに認めていたはずだ。三度の挑戦で、一回目は無名の新人で受験資格なし、二度目は演奏不能として審査対象外にしていたではないか。それがここまで来るともう認めざるを得ないのだ。しかし優勝させる訳にはいかない。審査員も苦悩した訳だ。 ベルリオーズは、両親とは疎遠になっていたが、この受賞は大きかった。ニュースを知ると両親は帰郷を許してくれた。田舎の町では世界の英雄が帰って来たと大騒ぎになり、母親は狂喜乱舞して息子の出世を吹聴し、父親ももっと勉強しろと大学に通うための送金再開を約束してくれたのである。実は息子が借金をして演奏会を開くのがみっともないと、こっそりその借財を埋めてくれていたことも分かった。まあこれで心配事は無くなった。 こうしてついにローマ大賞の二位を獲得したものの、その裏にはベルリオーズの作品を認めたくないというアカデミーの意思が動いていた。 翌年、四度目の挑戦であるが、ベルリオーズはカンタータ「クレオパトラ」を出品した。ここまでくるともうライバルもいない。誰が見てもベルリオーズの作品を越えるものはないのだ。しかし、アカデミーは一位該当者なしという前代未聞の審査結果を出した。 翌年、ついに五度目の挑戦である。一八三〇年、二七歳になった彼は、七月十五日の試験に臨んだ。カンタータ「サルダナパルの夜」を書きあげて、これで落とされるようなことがあったらクーデターを起こしてやるぞと決心して、試験場を出た。 その時である。町に銃声が響き、怒号が飛び交い、歓声が放たれた。アカデミーへなんて小さな感情ではない、本物のクーデター、七月革命が勃発したのである。彼はもちろん大感激だ。獣のような雄たけびを上げ、革命派からピストルをもらって一晩中パリの街を走り回った。残念なことに、ピストルは一発も撃たなかった。どれが敵で誰が味方なのか判別が出来なかったのである。 この暴動は十日間も続き、自由獲得の大きな革命として記録される。 そのさなか、二一日についにローマ大賞を手にした。アカデミーがついに敗北を認めたのである。 これは、彼の独創性が認められたということでもある。パリの人々も、彼の音楽がこれまでとは違うことは分かっただろう。斬新で、和音や旋律の展開も常識外れである。しかし、斬新ということは難しいということで、人気は今一だった。それがアカデミーが認めることで、これからの新しい音楽であることを認識させたのである。