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カテゴリ:旅やマイレージについて
今年こそ良い年になってほしい!
そんな願いをこめて、ブログのヘッダ画像をパリ・モンマルトルの美しい夜明けの風景に取り替えました。夜明けが、2009年・経済の夜明けになるといいのですが。 昨年末に行ったヨーロッパは、殆ど観光ができなかった。 パリに行ったら「モンマルトルの丘」に登りたい! それだけは実現しようと、パリの宿泊ホテルはモンマルトルの丘の下に滞在した。 写真は、宿泊したホテル横の交差点。この交差点を少し上ったところにサンクレール寺院の入り口がある。 wikiによれば、 1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilica of the Sacr? C?ur)が、1871年の普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。 朝8時、夜明けと同時に丘の上に立つ。 あまりの朝焼けの美しさ。さすが芸術家が集まった街。 丘からは、右端にエッフェル塔も眼下に見下ろせる。 多くの画家が毎日通ったというカフェムーランルージュ。 また、映画「アメリ」の撮影の舞台となった。 店内には、お洒落な額に入ったポスターが貼ってあった。 wikiに書かれていたモンマルトルの芸術家について 芸術家の街 テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Th?ophile Steinlen)によるキャバレー「ル・シャ・ノワール」の広告ポスター 19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントやカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。 パブロ・ピカソ(1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧乏な画家達やがモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となったが、1914年以後は多くはモンパルナスなどへ移転した。 ナビ派などの芸術集団がモンマルトルで組まれ、ほかに様々な美術家、詩人、劇作家、小説家などが生活・制作した。代表的な人物には、フィンセント・ファン・ゴッホ、ピエール・ブリソー、アルフレッド・ジャリ、ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、シュザンヌ・ヴァラドン、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、テオフィル・アレクサンドル・スタンランらがいる。彼らはモンマルトルを制作の場にしたほか、モンマルトルの風景を描いた作品も制作した。 モンマルトルのボヘミアン芸術家の最後の人物といえるのが1975年に亡くなったジェン・ポール(Gen Paul)であろう。彼はモンマルトルに生まれ、ユトリロの友人だった。ラウル・デュフィに多くを負う書道のような表現主義的な筆致のリトグラフには、絵になるモンマルトルの記憶を残したものもある。 1965年にリリースされフランス国内で人気を博したシャルル・アズナブールの『ラ・ボエーム(La boh?me)』という曲は、彼の若い頃のモンマルトルでの思い出を歌ったものである。彼の親もモンマルトルに流れてきたアルメニア人であったが、彼はこの曲を、モンマルトルがボヘミアンたちの根城だった最後の日々への別れの歌であると述べている。 モンマルトルは第一次世界大戦の直前あたりから急速に観光地化・高級住宅地化(ジェントリフィケーション)が進み、地価高騰と混雑を嫌った芸術家たちはモンパルナスに移っていった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年01月03日 10時25分44秒
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