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カテゴリ:拡大視野
そう、今の私を一言で言えば、「執着心を持たない」
くっそぉ!アレが思い通りにならなかった!腹が立つ! ええっ、そんなはずじゃなかったのに… そんなぁ~。どうしてそういうことを言うの??? みたいなのは、全部、執着心のなせるわざ。 「こうなるはずだ」「こうでなきゃいやだ」という気持ちの表れ。 それが自分の思いと違う=期待を裏切られる=執着した気持ちが苦しむ それがないのです。 私は、過去にも生きていないし、未来の計画の中にも生きていない。 今、ただ中に生きているだけ。 だから、過去への未練という執着、計画を死守するという未来への執着も持たない。 たとえば時々、過去の世界からのアプローチがあって、昔の彼から「久しぶりやな、元気にしてるか?」という心遣いを分けてもらえたら、その気持ちをありのままありがたく頂く。 それに別の意味合いを持たせて、あの時別れていなければ(泣)…とか、もしかしたら彼にはまだ気持ちが残っててまた近づいてくるつもりじゃないか?と勘ぐったりとか、そんな必要はないし、「ない」ものに対して執着したり気持ちを残したりする、無駄なパワーの遣い方をせずに、今に集中していたい、と感じている。 昔の私は、10文字くらいのメールの行間に100文字くらいの意味合いを勘ぐって勘ぐって、自分でしんどくなって、腹を立てて泣いてグッタリと疲弊していた。 アインシュタインだっけ?誰だっけ? 人生の中での苦痛の9割は想像が作り出す、とかいったの。 そのとおりだと思う。 今日の会話の中でも、人を通して自分の幸せを実感する人と、自分自身の表現で幸せを実感する人がいるんじゃないか?そして「料理を美味しかったと誉められた」ことに幸せを感じるなら、それもいいんじゃないか?という話があった。 それが幸せであれば、結果オーライなのかもしれない。 だけども一転して人のせいで不幸を感じた場合は、恨み辛みが発生しかねない。 人の行為によって幸せを感じている場合(料理を誉められた)、誉めてくれる人に対しての期待が生まれる。誉めてくれるように自分を持っていこうと頑張ってしまう。頑張った結果、誉められたら幸せ、誉められなかったら不幸。 頑張らなければ幸せは得られず、下手すると「自分はまだまだ出来ていない!相手はまだまだ自分を認めていない!」と渇望感に苛まれかねない。 そういう、自分軸ではない価値感が生まれる。 自分軸であった場合、自分そのものに幸せを感じている。 料理を作りたいという気持ちがあった場合、その素材を提供してくれる自然に感謝、自分を料理で表現できたことが嬉しい。そこで一応完結している。 さらに、ともに食してくれる人が居ればその人に感謝、そして相手の口にあえば尚のこと、口に合わなかったからといって、恨み辛みは発生せず、んじゃ今度はもうちょっと塩加減控えるねぇ~と客観的に捉えることが容易である。「誉められること」を期待していないから。 その料理が気に入らずプンプン怒られたとしても、あぁこの料理が合わなかったのねと判断でき、自分が否定された!と嘆き悲しむことはない。 なぜなら、自分は料理をすることによって、すでに自分の欲求は満たされているから。 そんな差なのです。 それを自己満足の世界…と取るのならば、私は自己満足の世界にいるのでしょう。 しかし、自己を満足させていなければ、他者の満足が自分の幸せには繋がらないように感じます。 自分に欠乏感、渇望感が溢れているのに、他者が幸せを感じてるからと言って、自分が幸せを感じるのは難しいのじゃないかな?と。 ボランティアにしても、無償行為にしても、それをする自分を肯定するからこそであって、無理矢理ボランティアに参加したり無償で働かされたりしたのでは、奉仕とは言わないですね。やらされてる感で不満大爆発。 自己を無にする、というのも、自分自身が無であることを良し!と感じた場合。 やはり、他人の幸せのために何かする自分が幸せ、と感じていなければ、そこに期待や失望感を感じない自分がいなければ、成り立たない。 自己のしていることに満足している(他人が喜ぶことが自分の喜び)。 他人軸で満足・幸せを感じようとしても、結果的には自己満足が出来ていなければ、成り立たないのです。 まず、自分を満足させ自分が幸せに満ちていると実感することで、余計な不安や想像の産物による苦しみ、期待した相手に裏切られた怒りなどを発生させずに済み、今ココに生きられる自分になれるんじゃないかなぁ?と思うのでありますっ♪ 自己発電。エコですな♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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