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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月07日
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柳沢吉保 五味康祐氏著

吉保佞臣説の拠り所(五味康祐氏著 一部加筆)

 

【柳沢吉保の祖父 信俊】

柳沢出羽守(のち美濃の守)吉保を、五代将軍綱吉の寵愛に取り入った侯臣とみなす説は、古くは元禄年間(一六八八~一七〇四)まだ吉保の存命中からあった。

 吉保は幼名を弥太郎といって、もと武田信玄および勝頼に仕えた兵部丞信俊というものの孫になる。信俊は長篠の合戦に勝頼の麿下にあって、しばしば徳川勢を悩ます軍功を立てたほどの武士だから、むろん三河以来の旗本ではなく、徳川には敵対したものだ。勝頼滅亡後、信俊は甲斐国(山梨県)巨摩郡柳沢村に住んだので、柳沢の姓を名のるようになった(武田家に仕えたころは、青木姓)。

 家康が北条氏直と争った時、北条勢を襲って首二級を討ち取った功で、信俊ははじめて家康に拝謁をゆるされ、七十二貫八百文の地を賜わってその麾下に属したのである。以来、数度の合戦に功を立て、慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の役には中山道を征し秀忠に供奉して信州上田を発った。そうしたことから、采地百六十石を給される身となった。

 

【柳沢吉保の父 安忠】

 

 信俊の四男を十右衛門安忠という。柳沢吉保の父である。安忠は十三歳で秀忠に謁し、父の遺領百六十石を拝領した。大坂の陣には秀忠の手に属して働いた。のち駿河大納言忠長(三代将軍家光の弟)に付けられた。この忠長が、いわゆる乱心・自殺の事件をおこしたため、家臣らは責を負って公儀を遠慮し、安忠もー時浪人していたのを、寛永十六年(一六三九)十二月、家光にゆるされて再び百六十石の采地を賜わり、御広敷番をつとめた。慶安元年(一六四八)には七十俵を加増されて三の丸の御広敷番頭となり、のち当時は館林殿と称された綱吉(家光の第三子)の勘定頭をつとめてしばしば加恩あり、五百三十石を得るにいたった。この安忠は長命で八十六歳まで生きている。でも五百三十石取りでは幕臣としては下級にちかい。

 

【柳沢吉保生誕】

 

 吉保は、そんな安息の子として万治元年(一六五八)十二月に生まれた。妾腹の子という。十六歳で元服し、延宝三年(一六七五)、十八歳のとき、隠居した父の家督を継いだが、むろん知行は五百三十石。綱吉の側小姓の一員に加えられていた。それが、延宝八年、兄家継(四代将軍)の逝去によって、綱吉は五代将軍となり、江戸城に入るにしたがって吉保もそれまでの神田の館(綱吉の居邸)から江戸城詰めになるのだが、この時はまだもとの五百三十石だった。それが綱吉の将軍就任後、しだいに栄達して、ついに一代で甲府城十五万一千余石の大名になるのだから、確かに綱吉の恩寵なくてはかなわぬことである。でも、単に将軍家の寵愛に取り入っただけの出世だったろうか?

 たかが五百石のそれも直参の家筋でもない武士が、いかにおべっかをつかい上様の御機嫌をとれはとて、十五万石の大名に立身できるほど幕閣は愚物ぞろいだったろうか? 諸大名は指をくわえて見ていられるのか?

 副将軍水戸光国も当時は存命である。尾張(愛知県)には英主とうたわれた徳川光友もいる。戦国乱世なら知らず、泰平の世に一軽輩がおべんちゃらだけで大名になれるほど、世間は甘くはない。もちろん、綱吉のころから将軍権力の独裁化の傾向はみられた。

従前は譜代大名の筋目に限られた将軍側近への登用が、綱吉の代になって外様衆にまで及んだのは事実であるのだ。が、幕府がいかに将軍専制政体とはいえ、おのずからな限度というものが当時はまだあった。柳沢吉保の異例の出世には、つまり侯臣であるだけではかたづかぬ理由があったのである。

 

 理由はふたつ。

 まず吉保が、じつはまれにみる凡帳面な、律義者であったこと。

他は綱吉がきわめて倫理観念の強いインテリだったことである。

 

柳沢吉保 異例の栄達(年譜) 綱吉の妾を妻に

 

【加増年譜】

吉保の栄達は、異例のことといったが、その加増を年譜によって列記すると次のようになる。

一、延宝三年 (一六七五)七月、十八歳、家督を継ぐ。五百三十石。

一、天和元年 (一六八一)四月、三百石加増。都合八百三十石。

一、天和三年 (一六八三)正月、二百石加増。都合千三十石。

一、貞享二年 (一六八五)十二月、従五位下誇大夫に叙せられ、出羽守と改める。

一、貞享三年 (一六八六)正月、千石加増。都合二千三十石。

一、元禄元年 (一六八八)十一月、一万石加増。都合一万二千三十石。

一、元禄三年 (一六八九)三月、二万石加増。都合三万二千三十石。

一、元禄三年 (一六八九)十二月、四品に叙せられ、これより二本道具をゆるされる。

一、元禄五年 (一六九一)十一月、三万石加増。都合六万二千三十石。

一、元禄七年 (一六九三)正月、一万石加増。川越城主となる。都合七万二千三十石。

一、元禄十年 (一六九七)七月、二万石加増。都合九万二千三十石。

一、元禄十五年(一七〇二)二月、二万石加増。 都合十一万二千三十石。

一、宝永元年 (一七〇四)十二月、甲府、所替え。都合十五万一千二百八十八石七斗三升七合なり。

 

 以上、元禄年間(一六八八~一七〇四)だけで六回、合わせて十一万石の加増で、あの松の廊下の刃傷で藩を取り潰され、大石良雄以下の吉良邸討ち入りにまで進展した赤穂城の浅野内匠頭でさえ五万石だったのを思えば、つまり五万石の取り潰しであれだけの事件に進展している事実に照らしてみても、一佞臣に都合十五万石の加増(今の貨幣価値でほぼ年額四十億円程度の増収になる)は、いかに異数な、ありうべからざることか想像はつくだろう。

 では、どうして加増が黙認されたのか?理由は、綱吉の落胤をわが子のごとくよそおって吉保が育てたからである。

 柳沢吉保には、『寛政重修諸家譜』によると、正室(曾雌氏)のほかに何人かの側室があった。そのなかで、染子という婦人が甲斐守吉里を産んでいるが、この吉里が将軍綱吉の落胤だった。染子は六代将軍の御台所となった

近衛氏(天英院といった)が、延宝七年十二月、入輿のため江戸に下られたときお供した女性で、当時十三歳だったという。それが、綱吉の気に入られて、お手がつき、妊娠したのを、吉保に賜わった。

 主君の側妾をくだされるのは当時はざらにあったことで、延宝七年といえばまだ吉保は小姓組で、五百三十石である。綱吉も江戸城に入る前である。想像でいうことだが、翌延宝八年、にわかに館林侯たる綱吉が五代将軍家になることに決まって本城に入ることとなり、お手のついた染子を神田の館に残さねばならぬので、吉保に賜わったのだろう。染子はこのとき、十四歳である。

 さて吉保が染子に接したところ、彼女は妊娠しているとわかった。そこでこの旨を言上すると、「いたわってつかわせ」というお言葉である。それで同じ屋根の下に暮らすのはいかがと思いはばかり、別棟の座敷をこしらえてこれに住まわせ、以後、登城するたびに式服で吉保は御機嫌うかがいをしたという。

 もっとも、この時の胎児は流産したらしい。十四歳の妊婦では無理もないが、一説には、女の子が生まれ、早世したともいう。吉里の誕生は貞享四年で、すでに染子をくだされてから七年後であり、だから吉里は御落胤ではなく、正しく吉保の実子なりとの説を唱える人もあるが、そしてこれが吉保を奸臣とみなす大きな拠り所となっているのだが、式服で朝夕の御機嫌うかがいをする律義者が、流産すればとて、たやすく彼女を孕ませるだろうか?

 

柳沢吉保 異例の栄達 将軍落胤の養育

 

前の年譜で明らかなように、それまで二千三十石だった家来に一挙に一万石の加増があったのが元禄元年(一六八八)つまり吉里誕生の翌年である。以来、公に、綱吉は他界の直前まで都合五十八度、柳沢邸を訪ねているが、こういうことは古今に例がない。あまつさえ、宝永二年(一七〇五)の夏、染子が大病を患うと、綱吉は松平右京大夫輝貞を使者としてその病を尋ねさせている。輝貞といえば老中格である。いかに寵臣の吉保とはいえ、その妾の病に将軍家が老中を見舞いに遭わすなどありうべきことではない。さらに染子の病気が重くなって、とうとう五月十日、三十九歳で亡くなると、この時も綱吉は松平陸奥守直広を使者として弔わせるのみならず、小石川竜興寺の葬儀の時にもわざわざ香典を遣わした。これまた例のない話だ。

 さらに、百箇日が経って、このとき吉保は詩をつくっているが、その端書きに、

霊樹院百日ノ忌去、特ニ台命ヲ蒙リ恭々シク遺物愚堂墨跡一帳、

和歌二十一代集、源氏物語各一部ヲ献ズ云々

と。

 おのが妾に、将軍の命をうけて遺品を献じることなど、あるべきわけがない。さらに驚くべきことにハ、染子の碑に「施主 甲斐少将吉保」と書いている。この書き方はまさに君臣の礼をとったもので、将軍の廟所一碑を献ずるにも「甲斐少将吉保」としか書かない。わが親や子息の碑にこういう筆法はつかわないのがならいだ。

 もうひとつ、柳沢吉保の言行を家臣が記述した『柳沢家秘蔵実記』をみると、吉里を柳沢家では「御屋形様」とよんでいる。大名の家臣が若殿を、「御屋形様」とは異例のことで、当時は将軍家の姫君が大名家に入興されたのを御守殿様とよんでいる例に照らしても、吉里が誰の子かは明白だろう(江戸時代の慣例で「屋形様」とよばれるのは、薩摩・仙台・越前・出雲・細川・上杉ら国主大名に限られる。他の並の大名なら、「殿様」である。もちろん当主だけが「屋形様」なので、『柳沢家秘蔵実記』を書いた家臣の代には、すでに吉里が当主としても、「屋形様」で御はつけないだろう)。むろん、実際は自分の子であるのに、わざと、さも綱吉の落胤であるかのように、「御屋形様」と家臣によばせたとも考えられぬではない。吉保をあくまで邪悪の佞臣とみなすなら、目から鼻へ抜ける絞滑な才子なら、それくらいの欺瞞は平気でやってのけたろう。だが、そんな絞滑の人物だったら以下に記すごとき言行を、なしたろうか?

 

柳沢吉保 吉保の言行 御酒はお嫌い

 

柳沢家の家臣は書いている。

「殿様は毎日、朝十時には登城なされ、午後二時にお城(江戸城)を退出なさるのが日課であったが、朝ほ必ず御精進で、登城の前には袴で持仏(居間に安置してある守り本尊の)昆沙門を拝まれる。そして御守り袋を懐中にして登城され、退出後はただちに御守り棚へおおさめなさるのがつねであった」

「平生の御料理に好き嫌いはなく、衣類も目立たぬ質素な物をお召しになり、朝食は一汁三菜、夕膳は一汁五菜、夜食は一汁三菜と決まっていて、朝夕とも随分かるい品を召し上がられた」(五味注。十五万石の大名なら夕食は、七菜、二の膳付きがふつうである)

「御酒はことのほかお嫌いで、御姫様方が雛の節句に樽を進ぜられても、この樟は台所の小使いどもに遣わせ、とのみ申されご自身召されることがなかった。それでお側に仕える面々もおのずと酒をひかえ申すようになったが、これは領地甲州は陰国ゆえ、朝寝大酒などしては病身になりやすいからとの深慮によったことと、側近には洩らされたという」

「松平の称号をゆるされ、御諱字を拝領して美濃守吉保とお改めになったのは、元禄十四年(一七〇一)秋に、上様(将軍家)が柳沢邸へお立ち寄りなされた時であったが、それまでの(柳沢出羽守)をそのまま(松平出羽守)と称してよかろうと上意のあった時に、殿は、松平出羽守は幕府のお家筋にあたり、自分ごときにははばかり多しと固く辞退なされ、美濃守に改められたのである。これは、松平氏で国名のあいているのは美濃しかなかったからという」

「殿は武芸をおさめることを第一に心がけられ、剣術は御流儀(新陰流)、軍学は甲州流、弓術は吉田流と大和流、槍は無辺流(直槍)と宝蔵院流(十文字槍)、馬術は八丈流および大坪流を寧日なくお稽古、精進なされた。

 剣術は柳生内蔵助がたびたびお城に召されて御指南したが、これは将軍家の御流儀なればとことのほか心づかいされ、お稽古の節は周辺の戸を閉め切って外部にお見せにならず、お稽古中は家臣が立ち入ることもおゆるしなく、稽古に際しては柳生とても御流儀の師範なればと、必ず上段より下座に下がって指南をうけられたのである。そして、その兵法書はことのほか大事になされ、箱におさめてこれに鍵をかけ、鍵はつねにご自身で所持された。土用には虫干しで箱から兵法書をお取り出しになるが、この時もご自身でなされお例の衆には手をつけさせられなかった」

 

柳沢吉保 家宣、擁立問題【事の真相】

 

では真相はどうだったの

 将軍綱吉には、ふたりの異母兄があった。いずれも父は二代将軍家光で、長兄が四代将軍となった家綱、次が甲府宰相綱重、季(すえ)が館林の綱吉である。

 さて四代将軍家綱の病体が重くなったときに、家綱には嫡子がなかった。次兄綱重はこれより先に三十三歳でみまかっていた。そこで五代将軍を季の綱吉が継ぐことになったわけだが、この時、甲府綱重には庶子ながら虎松という遺児あり、長幼の序からすれば、当然、家綱亡き後を継ぐのは次兄たる綱重の子の虎松なりというのが水戸光圀の意見だったという。でもこれは、綱吉の生母桂昌院がなかなかのやり手で、彼女は諸大名はじめ幕府重臣の誰彼なしに、以前から気前よく品物を贈ったりして綱吉の人気を煽り、五代将軍家は大猷院(家光)の御子たる綱吉こそしかるべしとの世論を煽動しておいたから、結局これが効を奏し、綱吉が家綱の跡を継いだ。

 さて綱吉には一男一女があった。鶴姫と徳松である。鶴姫は紀州の綱教(つなのり)に嫁し、徳松は当然、次期将軍家たる継嗣として西の丸に入っていた。ところがこの徳松が幼にして亡くなってしまった。となれは、綱吉の血をわけた子は公には鶴姫だけで、綱吉は娘婿たる紀州の綱教を江戸城に迎え入れ、次期将軍に定めたかったらしい。

 これに真っ向から反対したのが水戸光圀である。光圀は、綱吉の娘婿よりは甲府の遺児虎松こそ将軍家世継ぎたるべしとここでも主張したわけで、三代将軍家光の血のつながりを尊ぶなら、いっそ家光の息女千代姫(綱吉の姉)が嫁した尾張光友の子綱誠(つなのぶ)こそ、紀州の綱教より血は濃いはずではないかとまで言い張ったのである。これは正論だろう(藤井紋大夫が将軍家の意におもねってこんな光圀を排斥しようと連判状事件をおこしたわけである)。

 いずれにしてもだが、光囲の正論にはいかに将軍綱吉とても抗しかねていた。ところが、宝永元年(一七〇四)四月に、ひそかな望みをかけていた娘の鶴姫は亡くなり、さらに翌年五月、婿である紀州の綱教も亡くなってしまった。あまつさえ、それ以前(元禄十一年)に尾張の千代姫は亡くなっていて、その子綱誠もまた元禄十三年に世を去っていた。

 ここで、もう綱吉の血を継ぐものは柳沢吉保の子ということにした吉里以外にないわけである。にわかに柳沢父子の存在は、将軍家継承問題にからんで世人の注目を浴びることになったので、吉保が、綱吉の愛妾とひそかに謀って綱吉を亡きものにし、吉里を将軍家に立て、もって権勢をほしいままにせんとしたとか、綱吉が毒殺されたなどという浮説、つまり、柳沢騒動の虚妄がまことしやかに流布された由縁であった。






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最終更新日  2021年04月26日 18時26分54秒
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