カテゴリ:柳沢吉保 山梨北杜資料室
〇 『甲斐少将吉保朝臣実記』坂田諸遠著 【ことばバンク 坂田諸遠】 江戸後期-明治時代の国学者、官吏。 文化7年10月12日生まれ。筑前(ちくぜん)(福岡県)秋月藩士。久留米(くるめ)藩士松岡明義に国学をまなぶ。有職(ゆうそく)故実にくわしく、門弟に福岡藩士平野国臣(くにおみ)がいる。維新後は外務大録となり,「続通信全覧」などを編修した。明治30年6月26日死去。88歳。本姓は高島。名ははじめ諸近。著作に「将軍家装束考」「尾紀水三家老臣武鑑」など。 此の朱印書は世に伝ふ百万石の誣装する者則是なり、此朱印書事に就きては種々の妄誕世に行われ、既『折焚柴の記』(新井白石著)に、御代しろしめされし後に大学頭信篤、致仕の事を申す、某に其の由を抑蒙りしかハ此人前代の御師範たりとて世の人の敬ひつかへし所也、年末た七十にも満ずして今其の請う所を允(まこと)されんにハ世の人いかに申すへきと申たりけれハ前代に美濃守に甲斐賜ひし時に御判なされしものハ大学頭か草せしと聞えしかハいかなる故によりてか、世にためしなき事共をハ記して去らせたりけんと問ひしに、其時に当りていかんそ、彼朝臣か望にハ任せさる事の候へきと答ひ申しき、云々 とあるに拠て考ふれは本文宋印書の文は吉保ノ懲望に出シし如く聞ふれ共、既に本文に掲げし如く、四月廿九日公の真蹟に文章改撰させせられしは明かなり、吉保至愚の人ならず、自身に所賜ノ朱印書ノ文ヲ好んて信篤に撰ばしむべき所謂なきは本文に所掲の『楽只堂年録』以て証するに足れり、又此朱印書に所領額の記載無きに附会し「百万石の墨付」と捏造せしは、元来無稽の妄誕なり、 「柳沢系図」に 三郡一円の高雖ㇾ為二二十二万八千七百六十五石余而因旧冬御加禄之時不ㇾ遠故御米印之詞除ニ石高一向後待二時節一可二 進レ石―高給一之思召也 とあるを以て朱印書に所領額を戴せられさりし台慮は明か也、然れば常憲公薨去の後、文昭公も先君の遺志を継せられ、吉里が所領租税の正額二十二万八千七百六十五石余に増加せらるべしと間部詮房を以て下命ありしかとも執政等作法抵触すと故障し、両度までも拒みしこと『源公実録』に見えたり、又、「洋々社談第七号柳沢吉保侯略譜」中(上略)六年正月十日常憲公薨去、十三日佐渡守小笠原長重、越中守加藤明英をして命を侯に伝へ先公賜ふ所の印書を還納させしむ、とあるは撰者何に拠ての説にや、此印書とあるは本文に所掲の甲斐国者要枢之地所一門之歴々雖領来依真忠之勤今度山梨・八代・巨摩之三郡一円充行之訖為先祖之田地永可令領地云々」 の朱印書をさし云へるに似たれども、『柳営日記』を始め諸書初見なく殊に明治維新の初年慶応四年閏四月の布告に王政御一新に付而者官・公卿・諸侯並神社・寺院等領地高之儀御改正可被仰付候間、是迄旧幕府より受封之判物急に御用有之候間内国事務局江差出候様被 仰付侯事 閏 四月 比布令を奉じ内国事務局に進達に及びしまでは柳沢家の所領大和国郡山城に所蔵したり、然れば宝永六年正月十三日返納せしめられしと云ふ説の妄誕なるは明なり、有名の「折焚柴の記」、「兼山麗沢秘策」等に所記の醜詆(しゅうてい)説を正説なりと過信せしより、一犬の虚万犬の実となりて、在斯無影の説の世に伝ふるには、至りしなり云々
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最終更新日
2021年04月26日 16時57分44秒
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