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2019年04月10日
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 参考資料『折りたく柴の記』新井白石著 一部加筆
吉保関係記事
中 
綱吉将軍薨去と「生類憐み令」(仮称)の廃止 その時吉保は
 宝永六年(一七〇九)の春正月十日に、綱吉将軍薨去の報があり、明日人々は皆西城に参上するようにとの告知があった。自分も翌十一日に参上した。その時、意見書を袖に入れて、詮房朝臣を通じて奉ろうと思ったが会えなかったので、その舎弟の中務少輔詮衡(あきひら)を通じて奉った。(今の淡路守のことである)のその意見書には、当面の急務である三力条を記しておいた。この日、夜になって雨が降った。これは、去年の十月二十日以来はじめて降った雨であった。十二日にも、また参上して意見書を奉った。この夜また雨が降って暁までつづいた。これ以後毎日参上したが、まだ詮房朝臣には会わなかった。十五日になって、はじめて会って、これまで申しあげたことなどについて、様子を聞いた。十七日に、当十銭を廃止されるという仰せがあった。この夜また雨が降って、暁までつづいた。人々の宅、地、町々等を他所に移転さすこと、などが中止になったのも、この頃のことであろう。
 当十銭のことは、前に記したように、去年の冬以来、商人たちに使用する旨の証文をさし出すようにとあり、その催促は、去の日までつづいた。また人々の宅地や町々を移転させる件も、年がすでに改まったので、家を壊し、家屋を作り、資財雑具などを持ち運んだ。先例では、将軍薨去の場合には、七日ぐらいは工商ともにその仕事を休んだが、その期間が過ぎると、の売買、家屋の建築なども始まるので、これらの御沙汰がなくては、世の人は安心できないのあろう。それではよくないので今日の事を仰せられたのである。
十九日参上した時、元和令ついて仰せがあったので、家に帰って、その夜、「神祖法意解」一冊を撰述して、明日献上しょうと思ったところ、夜が明けると召されたので、参上してその書をも献上した。午後一時すぎに帰宅したが、重ねてお召しがあったので参上した。この日、前代の御時に制定せられた、「生類あわれみの令」が停廃された旨を承った。二十二日になって、御葬送の儀があった。雨が降りつづいたので、この日になったのだということである。
 ある人の言うのに、御葬送の儀が今日まで延期になったのは、ほんとは雨が降りつづいたためではない。理由があってのことである。
 いつの頃であったか、世継の君が参上されたところ、少将吉保(柳沢)、右京大夫輝貞、伊賀守忠栄、豊前守直重などの朝臣をはじめ、近習の人々を召されて、
「自分が年来生類をいたわったのは、たとえ不条理のことではあっても、このことだけは、百年後も、自分が世にあった時のように御沙汰あるのが孝行というものである。ここに祇候の者たちも、よく心得ておれ」
と仰せられた。
 しかし、この数年来、このことのために罪におちた者は、その数何十万人に及ぶかわからない。未だに判決がきまらず、獄中死の屍体を塩漬けにしたのも九人まである。まだ死なない者も莫大な数である。この禁令がのぞかれなければ、天下の憂苦はなくなるまい。
 しかし、あれほどまでに遺言しておかれた禁を、当代になって、除かれるのもよろしくない。ただどのようにもして、
遺誡のとおりでありたいとお考えになったので、まず吉保朝臣を召して、考えられたことをおっしゃつた。
この朝臣もともとこの禁令をよいと思うはずもなく、とくに前代の御覚えは他に異なっでいたものの、薨去後はどうなるかわからないと思ったので、
「仰せのおもむきは、まことに御孝志の至りと存じます」
と言ったので、
「では輝貞をはじめとして、今までこのことを司っていた者どもにこの旨を伝えよ」と仰せられた。そこで吉保が人々に仰せを伝えたところ、一人として異議を唱える者はなかったので吉保はその旨を申しあげた。
それではというので、二十日に御棺の前においでになって、
「はじめ仰せを承りましたことは、わたくしとしましては、いつまでもそむくことは致しません。ただ天下人民のことになりますと、思うところがありますので、お許しをいただきたいと存じます」
とおっしゃった。そしてむかしかの遺誡を承った人々を御棺の前に召し出されて、それまでのいきさつを説明なさり、そのあとでこの禁令を廃止する旨を仰せられたのである。
まだ御葬送の儀も行なわれないうちであったので、世間ではこれが御遺誠のことだと思ったのである。
また今夜の御供をすべき近習の人々のうち、髪をおろすことを希望した者も少なくなかったが、これも旧例によってその人数が一定しているので、その人を選ぶ役目は、吉保らの人々に申しつけられた。この時に吉保も髪をおろして、御供をしたいと望んでいる由であった。
(将軍家宣)「この上ない御恩に感じて、そのように思うのはもっともであるから、自分はそれを止めようとは思わない。しかし代々の例を考えるに、貴殿のような方が、髪をおろして御供をしたためしはない。むかし厳有院家綱公の御代になって、殉死を禁止された。今また自分の治世のはじめに、これらの例をはじめるのは、適当でないであろう。所詮は、御葬事が終ってから退職して、子息に家督を譲って後に、望むとおり髪をおろしたら、代々の例にも違反せず、また自己の志をも遂げることになろう」
 と、おっしゃつたので、この吉保朝臣はついに仕えを辞されたという。





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最終更新日  2021年04月26日 16時57分13秒
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