2313207 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月11日
XML
カテゴリ:民間伝承

山の神に関する民俗

(土佐)桂井和雄氏著(「民間伝承」昭和179月)一部口語に

1、山の口開け〕

《土佐の国》

土佐の国では、旧正月二日或は四日の日を選んで「山の口開け」「山の口」「山開き」等と言い、此の日山に入初めをして山の神を祀り、立木を伐って来る風を、今に色濃い年中行事の民俗の一つとして守り続けている村が多い。

《幡多郡》

幡多郡では大鰐「山の口開け」「山開き」等と呼んでいる様であるが、同郡大正村の葛籠川や打井川等では「コリゾメ」と言い、二日の朝竹を切って是にナゴシ()を挾み、開方に向ってフマ(供米)と餅を供へて後木を伐って来ると言い、隣村富山村大用では二日の朝、山におンブク(供米)を持って行き木を伐って是を「山の口開け」と呼んでいる。同村大屋敷では、二日の朝シヂ()とおヒネリ(供米)を持って行き、開方に向って木を伐って供える由である。同郡十川村広瀬では、四日の日を「山の口開け」として居り、同郡の海辺の村伊豆田村や月灘村でも、此の日を「山の口開け」と呼んでいる。

《高岡郡》

高岡郡では、仁井門村、東叉村、檮原村、東津野村、浦ノ内村、蓮池村等で、四日の日の「山の口開け」の採集をしているが、東津野村は此の日幣とおフマを山の立木に供へるのを禁忌して、必す立木を伐って後山の神を祀り、薪を一把位伐って来ると言い、檮原村では此の日を単に「山の日」と呼んでいる。

同郡黒岩村では、二日の日を「山の口開け」と言い、昔は立木の枝を下してお祀りしていたと青うが、ハバ山(共有山)の木を伐る爲に口開けを競い、方々に下した生木が其の儘生い立ち山の神の惜しみの木となって、他の木との区別がつかなくなり、惜しみの木と知らずに伐った者が病気に罹るので、最近では大晦日に幣をつけて用意して置き是を供へてお祀りする風になっていると言う。(岡林清恵さん)

《吾川郡大崎村峰岩戸》

吾川郡大崎村峰岩戸では、昔は旧正月一日に「銃の口開け」と称して、空に向かって空銃を打つ風があったと言はれ(井上お幸さん)、同村寺村では二十日正月の日を「山の口開け」と称して、此の日山に行って空銃を打ったものであると言う(尾崎徳治さん)。同郡横畠村では、二日の日を「山の口開け」と呼び、此の臼梶殻に餅、乾械、おフマ等をつけて山に持って行き、幣を立て土木を伐って来ると言う。

《土佐郡土佐山村》

土佐郡土佐山村では、二日或は四日の日を「山の日」と言い、此の日の早朝家長のみが山に出て、「山の口を開ける」と称して、鎌で手ごろの立木を伐り倒し、小枝を切り取って地上に立て、是に餅の小片、米、ナマグサの類を紙に包んで結びつけ、神酒を散らして一年中の山仕事の幸を祈る。若し立木を伐らすに「山の口を開ける」と、その山全体の生木が山の神の「惜しみの木」となり、伐採への禁忌を設定する事になるので、必す立木を伐り倒して後に行わねばならぬものとされている。サキヤマ()や木出し、等の如く山仕事に関係する者の家では、二日の朝を「手斧初め」と呼び、ハツリ(大斧)を持って山に行き、山の口を開けて木を伐って来る風がある。

《長岡郡稻生村》

長岡郡稻生村では、二日を「伐り初め」と呼び紙に餅米を包んで山の木の枝に括りつけて置いて、開方に向って餅、薪炭材を伐り倒して、その一部を持ち帰って来る風がある。

《香美郡在所村白石》

香美郡在所村白石では四日を「山の口開け」と言い、山の茅の穂一本に樫、粟の枝各一本を葛の蔓で括って持ち帰り、是を田植えの時までエブス棚或は床の間に貯へて置き、おサバイ様の供物にする。なお此の枝にオボコと言ふ葛を輸にして掛ける事もあると言う(萩野淺次氏)

《安芸郡赤野村》

安芸郡赤野村では、四日を「山の口開け」と呼んで、供米と餅、ナマグサを木に括りつけて木を伐って来る。

以上の民俗は、総括上土佐七郡の山多い村々で守れているものと見て差し支えないようである。

 

2、山の神祭〕

 

土佐の国では、旧暦月の二十日を山の神の祭の日として、此の日山仕事を休み、神酒を供へ時には餅を携いて祀る風が山村に多い。普通旧暦の正五・九月の二十日を言うが、中には正月と十二月の二十日の山仕事を特に忌む村がある。

《香美郡准所村永野》

香美郡准所村永野では、正月の二十日を山の正月とも言い、物部川を隔てて対岸横山村庄谷相での採集と同様此の日山の神を祀り、仕事に出ない。

《長岡郡上倉村》

長岡郡上倉村桑の川より同杵奈路及び久禮田村領石等に通ずる蜜遣の官林中の峠にある山の紳は、山手に当たって石を築き、高さ四十糎許の木造小祠を載せ中に石灰岩のヒヨーゲ石(奇形の石)を祀ってあり、後方にツガの老木一本が聳え“並んでヒサカキの古木三本と、曲出叢生するアセビの老木二本がある。祠前には多数の枝が体積し、最近の奉献物の石造の香台がある。是は後掲幡多郡の山の神資料と同じく、(註一)柴神・柴折或は石神等と呼ばれているものと同系統のものであるが、桑の川十八戸では山の神として、正五・九月の二十日に酒肴を持ち寄って祭を続けている。

《大体山村》

大体山村農民の山に対する信仰の対象として祀られている山の神の叢祠は、この桑の川の山の神に類似のもので、高知縣神社誌に採録する山祇(山積、山津見)神社、大山祇神社、山神社、山ノ神社、仁井田神社、森神社、大蜂神社等と呼ばれている大小の神社以外、その数は無数と言ってもよい状態である。

《土佐郡》

土佐郡土佐山村弘瀬区でも、その数は五指に余るものがある。それ等の中の県道に沿う日比原の山の神に就いて記してみると、是は正月と十月の二十日を山の神の日とし、此の月附近の山に関係する農民達が酒肴を持寄り、石灰洞窟内に祀る山の神を拝み、洞窟内の祠前で酒寮を開いている。神霊は古い鍬の先である。

《吾川郡大崎村峰岩戸》

吾川郡大崎村峰岩戸では、正月二十日にその年の最初の山の神祭をすると言うが、同村寺村では前章報告の如く此の日空銃を打つ風があったと言う。是は同郡清水村でも行われて居り、後で村の者が集り酒宴を催して山の神を祀ると言う。

《同郡名野川村津江》

同郡名野川村津江では、此の日仕事を休み山行きを禁忌しているのを採集している。

《幡多郡削の口村》

幡多郡田の口村下田ノ口では、正五・九月の二十日を山祭りと言い、特に正月二十日をハツルニ十日(始めの二十日)十二月の二十日をハテルニ十日(果てる二十日)の山祭を称して、山仕事に出るのを極度に忌む風がある。

《幡多郡富山村大用》

幡多郡富山村大用でも、正五・九月の二十日を川の神の日としているがが、最近ではそれらの組の或るものは略して旧暦九月十、七日を山の神の日として、十五銭位集めあって形ばかりの酒宴と祭をするようになっている。同部落上組の祭は、同じ九月十日に藁スボにつるいも或はただいもの蒸したものを包み、その上を三所括って各家より一ずつ持ち集めて祀り、後で是を部落の子供らに分けてやる風がある。同村常六では、前掲同様正五・九月の二十目を山の神の祭日としている。

《同郡大正村打井川》

同郡大正村打井川でも、正五・九月の二十日を山の神の祀りとして、此所では組の者四十戸が全部山の神の境内に集り、一寸酒を飲みあって後で相撲等の催しを行っていると言う。

《同郡十川村廣瀬》

同郡十川村廣瀬では正月と七月の二十日を選んで山の神の境内で、部落民がお伊勢踊を踊り後で小酒宴をすると言う。

《同郡山奈村山田字土居ノ内下り着》

同郡山奈村山田字土居ノ内下り着(山坂を下りた所の意)に山の紙と呼んで、柴を折って供へる柴神に類するものがあるが、此所では旧暦の二十日を山の神の日として祀り、特に杣達は正五・九月の二十日に仕事を休んで祀っていると言う。(山本貞治氏)

《同郡橋上村楠山字本村》

同郡橋上村楠山字本村では、並月と九月の二十日に部落民が集って山の神を祀り、廿月十九日には当屋の世話で山の神の祀りの余興に盆踊をしているのを採集している。

《幡多郡富山村》

部落や組の察以外に、幡多郡富山村の炭焼達の間で守られている山の神祭は、正五・九月二十日を窯鎭めの日として、この日番小屋にお札を張り仕事を休む風があり、特に二十日正月を「山の口開け」と称して、窯の口にミヤマ神を立てゝお神酒を散らすと言い(山脇茂氏)

《土佐郡土佐山村》

土佐郡土佐山村のサキヤマ、山師等の間では、正五・九月の各二十日を山の神の日とし、異例として十月と十二月の二十日にも山仕事を休む風がある。此の日親方或は事業者は、男らに酒肴哀供すると言うが、酒宴の前には必ず山に至り、盃の神酒

を木の葉で枯木或は伐木にかけ散らして後、小屋に帰り酒宴に移る事にしている。此の時前掲山の口開けの場合と同様に、立木の「惜しみの木」になるのを怖れて、決して立木には神酒をかけぬ事にしている。

 

3山の神の性格〕

《長岡郡上倉村》

長岡郡上倉村での山の部落での聞書では、山の淋はむノかしい神で柴一枚でも惜しむので、柴を供へてやると暮ぶと言われ、.前章桑の川の山の神は、前には氏榊の地主神に合施してあったが.山の神のお氣に入らないのが、元の鎭座地にケチ(奇怪)な事が続出するので、再び元の峠へお祀りしたと言われている。

《土佐山村》

土佐山村では、山の神は怒りやすく祟りの強い神であると言っている。同村中切区の或る都落では、おサバイ様は山の神で、田植えの頃には田に下りて来られると言っている者もある。

《高岡郡黒岩村原》

高岡郡黒岩村原では.山の榊様はすべてお神母山(おいげやま)の神様と言うのが本当だと言い、その所には必ず楠の木が植えてあると言う。

《中野》

中野と言う部落では、先年氏神様と合祭して其の境内の楠の木を伐り倒すと都落総代が大病に罹り、牛平野と言う部落ではお神母山様の楠の木が、田のフケ(作物の邪魔になる木の称)になると言って枝を下した者の家が、火事で全焼した事がある。 このように山の神様は伐るはおろか柴を踏んでも御機嫌が悪い程、欲深い神であるとして恐れられていると言う。また正月二十日の山の神の日は、この朝空腹を訴へると山の神のおふるまいにあうと言い、一年中「ひだるい」思いをせねばならぬと傳へて、ひたるい(飢を覚える)と言う詞を口にするのを禁忌している。

《同郡東津野村芳生野》

同郡東津野村芳生野では,山の神は女の神であると言っているのを探集している。

《高知県神社誌》

高知県神社誌採集の多くは、祭神を大山砥紳としている。

4、山の神の祟り〕

《土佐郡本川村》

土佐郡本川村では「山泣き木泣き」と称して、伐採を禁忌されている日があると言われ、此の日を知らずして伐った木は、根の方が枯れず切口の樹皮が内側に巻きこんでくると言う。(山中祐章氏)

山の紳の木を伐って祟りを受けたと言う例は、山の民の生活では度々経験されている真実形而下の恐怖の一つである。

最近探集している二三の例を挙げてみると、昭和172月土佐郡土佐山村弘瀬区の二一青年は、山仕事より帰って突如脚部に激しい痩痛を感じ初め、深夜針を刺すように痛み是が敷目続くので、太夫に観てもらうと山の神の木を伐った祟りかだと言われ、お詑びとして柏と榊の木を持って行き、枝にお札を附け根本に白餅十二個を埋めて一の枝(最下部の枝)を東向けて植える呪禁を実行して忽ち治癒したというのを当人より聞いている。

《同村桑尾区》

また同村桑尾区の某女は、山の神の祠前に芋ツボを掘って同様の痛みに憑かれ、太夫に観てもらい呪禁ってもらって拾ったと言う。或る母親は、数年前息子が山の神のお怒りを受けて患い、お詫びに松と杉を持って山の神の前に植え、根元に五殻を埋める呪禁をして治ったとも言っている。

《同村久萬川区》

或いはまた同村久萬川区の炭焼き某夫婦は、山の神の借しみの木を炭に焼いて、後日男は山で大怪我をし女は長い病臥にあった例がある。

《村西川腹の奥の祟り山》

また村西川腹の奥の祟り山と呼ばれて怖がられている山は、所有者が必す患ふと言われ、最近の買主も精神に異常を来たしている実例があり、此の山には禁忌の木として、樹幹に枝が蛇のように巻きついているものがあったと言う。

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月26日 16時39分11秒
コメント(0) | コメントを書く
[民間伝承] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X