カテゴリ:甲斐武田資料室
<武田時代の庶民と甲州金>
「慶長見聞集」巻之七の
「----かるところに当君の御時代に金山できて、金銀の御運上を車に引きならべ、馬につけならべて毎日おこたらず、なかんずく佐渡島はただ金銀をもってつき立てる宝の山たり。 この金銀を箱に十二貫目入りあわせ、百箱を五十駄積の舟につみ、毎年五十艘づつよい波風に佐渡島より越後のみなとへ着岸す。これを江戸(城)へ持ちはこぶ。おびただしきこと、むかしいま、たとへとてもなし、民百姓まで金銀とりあつかふこと、ありがたき御時代なり----」しとある。 「慶長見聞集」は、小田原城の北条氏政の臣、三浦浄心が入道して筆録Lたもので、永禄八(1565)年に生まれた作者は、天正十八(一五六五)年に二十六歳で小田原城へ籠城したが、城が落ちたあとは江戸に住み、「順礼物語」「見聞軍抄」「北条五代記」などの諸文集があることで有名だ。
「江戸にて金の判あらたまること」で、 「江戸町にて金に判する人、四条、佐野、松田とてこれら三人也。砂金を吹まるめ、壱両、弐朱、朱中などと、目方をも判をも紙に書つけ取波すること天正寅の歳より未まで六年用いきたる。この判自由ならずとて、後藤庄三郎という、京よりくだり、おなじ未の年より金の位さだめ、壱両判を作り出し金の上に打刻ありて、これを用ゆる。また近年は壱分判出来て世上あまねくとりあつかへり。されば愚老の若い頃は、壱両弐両、道具よりはづし金を見てもまれごとの様におもひ、五枚十枚持たる人をば、世にもなき長考、うとく者などいい」 が、今はいかようなる民百姓にいたるまでも、この金を五両十両持ち、また分限者といわれる町人達は五百両、六百両持てり。此金家康公御時代より諸国に金山出来たり。万民金持事は秀忠公の御時より取扱かへりしと。
以上は、戦国時代に成長し、江戸へ出てからは上野不忍池付近に住んで、徳川三代にわたる杜会情勢を見ながら書き続けて、八十歳で没する正保元(1644)年までの実録であるから、甲金研究にとっては注目すべき一級の側面資料である。
これで天正十九年ごろの万民は余り金を持てず、二代将軍秀忠の時代(慶長十年・1605~元和九年・1623)に至って、はじめて平等に金を売買通貨として、普遍的に持てるようになったとある。 この点、浄心自身が江戸において初めて通貨としての金判を手にした実感を筆録したもので、文中の十八年は十九年の誤記と思う。 家康は関東受封の翌十九未年から文禄四(1595)年まで、小額の鋳造を行ったが、甲斐国志では 「慶長以前ノ金ハ犬判ノミデ小判ナシ。壱両十匁ニテ慶長小判ノ弐両余二当タル--」とある。 家康が文禄四(1595)年に、後藤光次を京から下し、小判座二十七人を定めて、駿河、武蔵判を吹かせた頃に甲州金はどうであったかは、 「坂田清九郎古券集」、 青木昆陽の「甲州略記」「昆陽漫録」「甲州古文書集」「甲陽軍鑑」「甲斐律令雑輯」「裏見寒話」「甲陽旧尋録」「古山日記」「歴代譜」など、二十指に余る古記を整理しながら、「慶長見聞集」などの中央文献とも比較したいが、武田以後のものをざっとひろう。
「慶長見聞集」は、陸奥の藤原氏の栄華を伝えたあと、 「……天正年中の頃、金壱両に米四石、永楽は壱貫、但し、びた四貫に当たる。是は三十年余以前の事なり。其頃、金壱両見るは今の五百両、千両見るより稀なり。然れば国治り、民安穏の御時代、皆人金たくさんに取扱ふといへども、あたいは古今同じとて、めでたからたり----」 と、「吾妻鏡」にある鎌倉初頭の物価を挙げて比較している。 なお「是は三十余年以前」とあるのは浄心の在世中の永禄五(1562)年頃にあたり、この頃の民百姓はまったく黄金など拝むこともできないことを示すものだ。
土肥金山など日本有数の金銀山をもっていた北条氏の臣だった三浦浄心すら、金判などみることさえまれであったとの述懐でもある。 民百姓まで金銀がもてるよきご時世にしたのは、大久保長安という金銀山開発の鬼才天才と、これを助けた金掘りの力量才覚とみるべきところだが、その長安一族の末路はあわれをきわめている。 浄心ですら、壱両の金をみることのまれだった戦国時代の情勢にてらしても、甲州だけ黄金が通貨として民百姓の問に社会性をもっていたかどうか。これを否定する資料は充分ある。
家康が天正十九(1591)年の十二月から小判の鋳造をおこなう以前は、ほとんど貴族、社寺、高級武土のみがもつ寄進物・恩賞用とみて大過はあるまい。 ことに、青木敦書が、天正十(1582)年に、甲州からかき集めた三十万両を吹き替えたという記録など、昆陽の目がくらんでいた、と「甲斐国志」はコキおろしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 16時32分51秒
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