カテゴリ:武田信玄資料室
死んで主張した北地五郎左衛門 武田信玄には異臣が多かった。 武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆
侍大将山県三郎兵衛の組下、北地五郎左衛門は伊勢の浪人だった。 上り身上の信玄時代、武田家には仕官をもとめて各国の浪人たちがたくさんやってきた。五郎左衛門もその一人で、十六貫の知行地をもらい、寄親でもある三郎兵衛に付けられたのだった。 この北地五郎左衛門は、戦場でもまじめに働く勇者だが、一方では当時の武士気質をよくあらわす実利的な面があった。それで、知行地の替え地を三郎兵衛の経理を担当している組頭の大場民部左衛門に要求した。五郎左衛門がもらった知行地は痩せていて、穀物があまりよくできなかったからだ。寄親は組下の土地を、信玄に上申して左右できる。 何度も五郎左衛門は要求した。だが、経理担当の民部左衛門は、五郎左衛門が他国者なので、いい加減な返事をしたまま、寄親の三郎兵衛にはとりつがずに放っておいた。 五郎左衛門は腹を立てて、武田を浪人して他国に行こうかと考えた。が、当時は武田を辞めてよそへ行く者など一人もなく、もしやめたなら、なにか過ちをしでかしたのだろうと思われかねない。それで、五郎左衛門は退去することもできず、さんざん考えた末、自殺することにした。 彼は仲のよい朋輩を呼んで理由をいい、刀を抜いて自殺にとりかかった。だが、朋輩が押さえているから腹には刺せない。しかたなく、膝の上の大ほえずというところを、十二、三刀突いた。それで目的を達し、三日目に死んだ。 このことを聞いておどろいたのは寄親の山県三郎兵衛だった。しょせん、家中には知れ渡るだろうし、責任は自分にあるのだ。さっそく原隼人、三校勘解由左衛門、曾蝋与市助を証人として、自分はまったく知らなかったむねをしるした誓紙を、奉行所にだした。 俄然、問題は大きくなった。武田家に仕えている諸国浪人衆が騒ぎだしては大変なことになるからである。 信玄の命により、長坂長閑斎、跡部大炊助、岩間大蔵左衛門に目付 横目付四人を加えた調査団が結成された。 そして、調査の結果、山県三郎兵衛はなにも知らず、すべて組頭の大場民部左衛門の落度なのが判明した。民部左衛門はすぐに成敗された。 五郎左衛門の葬式は、東山梨郡の清白寺で三郎兵衛が施主となって行なわれ、甲府からは二十人頭、御中関頭など四人が二十両の香奠をもって参列した。 諸国浪人衆は騒ぎださなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 13時43分03秒
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