2293557 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年11月22日
XML
カテゴリ:武田信玄資料室

 













  信玄とその時代 品第三 信玄公、父信虎公を追放

 

 『甲陽軍鑑 名勝』現代語新訳解説

  腰原哲朗氏著 (こしはら・てつろう)

1936年、長野県生まれ。

東洋大学大学院中退。

長野県立松本所ケ丘高校校長を経て、現在、松本大学松商短期大学部教授。

主要著書に、『島崎藤村・詩と美術』・『リアン詩史∴1930年代』

『眩めく詩抄』などがある。

発行人 高森みどり

   発行所 株式会社ニュートンプレス

   

一部加筆 山梨県歴史文学館

 

甲州の源府君武田信虎公の秘蔵の鹿毛馬(体が茶褐色で、たてがみ・尾・足の下部は黒色)は、足から肩まで四尺八寸八分、そのたてがみ姿はたとえば(宇治川の合戦で先陣を争った、あの)源頼朝公の生食・摺墨といった駿馬にもひけをとらないと、近国まできこえた名馬なので、鬼鹿毛と名付けられた。

跡継ぎの勝千代殿(信玄)がその鬼鹿毛を所望なさいましたが、父の信虎公は並はずれて悪大将であられたので、我が子だといっても秘蔵の馬を申し出通りゆずる気持はまったくもたれなかった。そうかといって我が子の所望に対していやだというわけにもいかない。そこでさしあたっての返事に、

お前はまだ若いからこの名馬は似合わない、来年十四歳で元服に達した時に、先祖伝来の義弘の太刀、左文字の刀脇指、そして二十七代までの御旗・楯無の鎧(塩山市菅田天神社所蔵で国宝)をさしあげよう、と約束をした。膳千代殿はかさねて嘆願される。楯無はわが甲斐源氏の祖、新羅三郎の鎧、御旗は同様に八幡太郎義家の旗である。太刀、刀、脇指は先祖伝来のものであるから、家督の相続とともにいただくべきです。来年の元服といってもそれまでは半人前の身ですから、それらはとても受け継ぐわけにはまいりません。

これにひきかえ馬は今より乗り習い、一、二年の間には、どの出陣にもなんとか後陣をつとめたい覚悟で所望いたしましたので、以上のような御意向では、とても承知することはできない旨を言われる。

すると信虎公はひとかたならぬ狂気の人であられたので、おおいに怒って大声をあげておおせられるに、家督を譲るも譲らぬもこの胸三寸にあることだ。先祖代々の物を譲ろうというのに厭だというならば、弟の信繁を武田家の惣領にする、この父の命令をきかない者は追放してやれと。

その時、勝千代殿は諸目を流浪したり、ほかに何か方策を考えても、なまじ父は承諾すまいと考えて、備前兼光の三尺三寸の刀を抜き放ち、使いの者を信虎公のもとへ追い払わられた。けれども禅宗曹洞宗の賢者、春巴(しゅんは)と申す和尚が仲裁にはいられたことにより大事にはいたらなかった。

 

その後互いにわだかまりはとけず、ややもすると勝千代役を信虎公は苦しい目に合わせられた。で、家中の多くの人達は皆、勝子代役を馬鹿にした感じでみていた。勝千代殿はこの軽んじられた表情を御存知だったが、なおのこと愚かなそしらぬふりで、落馬して背中に土をつけ汚れた姿で信虎公の前に出られたりした。書もむりにまずく書き、水を浴びても深い所でおぼれて助けられ、石や材木の大物を引く場合でも弟の次郎役は二度引けても、勝千代役は一度きりでだめだという風であった。

何もかも弟より劣る人というわけで、信虎公が勝千代役をそしられるのにならって、家中皆それになびいたという。

 けれども駿河の今川義元公の肝入りで、勝千代殿は十六歳の三月吉日(一五三六)に元服なされて、信濃守夫膳大夫晴信(宮内省に属し、臣下の食膳を司る大膳職の長官名)と命ずる旨の勅使が宮中より参った。勅使転法輪三条殿(一条公頼)が甲府へ下向なされ、そのおり勅命をもって三条役の姫君を晴信へということで、同年七月お輿入れということになった。

 その年の十一月は晴信公の初陣であった。敵は海野口(長野県南佐久郡南牧村鳥井城とも)といって信濃国に城をもっていた。ここへ信虎公は出陣なさって、敵を追いつめたが城内の兵は多い。平賀の源心法師という者が加勢に来て龍っている。とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気配すらない。甲州勢はそこで内々相談して、城内には三千ほどの人数ということなので我攻(無理押しの攻め)ではまずいということになる。味方の兵もよもや七、八千には達していまい。それに今日はすでに十二月二十六日で暮れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、追撃するなどということは決して考えられないことですから……と申しあげると、信虎公は納得して、では明日早々に引き返そうと決心しておられた。そこへ晴信公が参られて、それでは私にしんがり(殿)を仰せつけられたい、と所望されたのであった。

 信虎公はそれをお聞きになって大いに笑い、武田家の不名誉になることを申すものだ。敵は追撃すまいと戦いの功者がいっているのだ。たといお前にしんがりを申しつけても、それは次郎に仰せつけていただきたい、といってこそ惣領というものだ。次郎がお前の立場ならけっしてそのような望みは申し出まい、とお叱りなされたが、清信公が非常に強くしんがりを望まれたので、実現した。

それではということで、信虎公は二十七日の暁に先頭にたって軍馬を引かれた。

 

 晴信公は東道は甲州方面へ三十里ほどあとの地に残って、いかにも用心したようすで、ようやく三百ばかりの手勢を指揮して、その夜は食を一人あて三人前ほど作って、早々に出発の準備をする。足袋・行腫(脚絆に似たもの)・兵器をそのまま身につけて、馬はよく養い、鞍も置いたままである。寒空なので、明日出発するという時、上戸・下戸(酒をたしなむ人もそうでない人も)ともども酒をふるまい、夜七ツの時分(午前四時)になったら出かけるつもりだ、と自分で触れてまわった。

 内衆(家人・召使)も晴信公が深慮なされているとは知らない。ほんとうに信虎公が悪く言うのもごもっともだ。この寒天にどうして敵が追撃などしてこようかと、部下の人々皆がつぶやくのだった。

 さて七ツの時分に出発したのだったが、甲府へは行かずにとってかえし、あとにしてきた城を攻略し、二十八日の暁にわずか三百あまりの兵力で、あっさり敵城を落してしまわれた。城の内では平賀の源心法師が、側近の部下をすでに、十七日には里にかえし、源心だけは一日くつろいで、寒天なので二十八日の昼にでも発とうとのんびりしていた。他の侍も年越しの用意に自分の家に帰り、

城に歩武者(馬にのらぬ下級の兵)七、八十人のみであった。

 晴信公の軍勢は、源心をはじめとして番兵を五、六十人射ちとり、功名も何のその、平賀の源心の首だけをここへ持って参れと命じて前に置かせ、根小屋(山上に城のある城下町)に火を放ち、あちこち油断していた侍どもをからげに、二十、三十人と討ち捨てる。他からの加勢の者は村々におって、この度は一日休息してから帰城しようとしていた矢先だったから、なおのこと戦わずに逃げて行くのだった。その中には剛の武者がかなり居るにはいたけれども、すでに落城し、そのうえ晴信公大将一人とは思わず、信虎公が引き連して戦っていると思っているから、一万人におよぶ人数が攻めているのだから何の応戦もできまいというわけで、女子(めこ)を連れて逃げるのに急で、山の洞谷に落ちて死ぬ有様であった。まったく晴信公の手柄は古今まれなことだと、他の国の家臣

にまで評判がたった。

 ところでこの平賀源心法師は、非常に剛の兵で、力も七十人力との評判であった。きっと十人力はあっただろう。四尺三寸ばかりの刀を常に所持している大人で、数回の激しい戦いで慟いてきた強兵である。これを晴信公は初陣で討ちとり手柄をたてたのだ。これが十六歳の時のことである。

ところがこのことも信虎公がいわれるには、城にそのまま居て使者もたてずに城を捨ててきたのは臆病者だと批難されたこともあって、内衆十人のうち八人は晴信公の戦功を誉めなかった。時の運たったとし、その上敵方は加勢の者もいなくなり、地元の侍も年とりの用意に城から在所に降りていて、開き城になっていたのだから勝利も当然だと、晴清信公の武勲を認める者はすくなかった。信虎公へのおせじもあって、弟の次郎殿をほめる手前、心では晴信公を讃しながら、口先ではそしるものばかりであった。弟の次郎殿とは、後に転厩信繁と申された人のことだ。

 

 とにかく、晴信公は奇特な不思議な魅力をもつ名人であられた。

このような武勲をたてられてもおごる気配もなく、そらとぼけた様子で時々駿河の義元公へ晴信を寄せた。次郎殿を惣鎖にたて、自分を嫡子からはずすと信虎公は申されるが、そのおりは義元公だけが頼りですからよろしく、といろいろお頼み申されたのだ。だから親元公もまた欲をおこし、信虎公は剪(義元の妻は信虎の女)にあたるし、自分より前から剛者としてきこえているから、今は甲州一国であるが我が配下にはとてもなりそうにない。だから晴信をとりたてておけば、確実に我らが統治下に入り、そうなれば子息(今川氏真)の代までも旗下に仕えるかたちになるだろうと考えられて、晴信公と組んで信虎公を駿河へ招かれたのだ。そのあと清信公が思いの通りに謀叛をおこして成功なされたわけだが、それには今川義元公の以上のような思惑がはたらいていたのだ。しかしこの謀叛も信玄殿の御工夫が大きくものをいったのである。

 信虎公が次郎殿を惣鎖にたてたいという意図は、重大な手ちがいであったから、先祖の新羅三郎公の御憎しみをうけて、あのように御牢人の身(浪人)になられたのかと思われる。

前車を覆すのをみて後車のいましめ(前人の失敗は後人の戒め)といわれるように、勝頼公はこれに学び、まずい判断をけっしてなされぬよう申し上げる次第です。

 さて信玄公の初陣のしるしに、平賀の源心を石地蔵として祭り、今でも大門峠(長野県茅野市と小県郡長門町の境)に碑を建ててある(現存)。刀は常に館のお弓の番所に「源心の太刀」として置いてある。【註記 墓は山梨県須玉町若神子に現存】

 

【筆註】ここから勝頼の話となる。

 

 武士はただ剛強なだけでは勝つことができない。勝利がなければ評判をとって有名にはなれぬ。信玄公のなされた業績を手本になされず、ただやたらと勝利と名声を望まれるから今度の長篠の戦(愛知県南設楽郡の辺り、一五七五年の合戦)も失敗し、家老衆を多く失ったのである。これは勝頼公の若気のいたりであり、おのおの方の配慮が浅く誤っていたからである。

 我らが死んだあかつきには、この書物をどうか御覧になっていただきたい。

 

右(上)のような御父子の事は、信虎公が四十五歳で浪人になられた時のことである。

信玄殿は十九歳の時であった。

 

天正三年六月吉日  高坂弾正

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年11月22日 12時45分58秒
コメント(0) | コメントを書く
[武田信玄資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X