カテゴリ:武田信玄資料室
無理の通らぬ? 縄無理之助 武田信玄には異臣が多かった。 武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆
無理之助は上州那波郡の名和駿河守の子で、近隣に響いていた剛の者だった。 名は宗安。重行ともいったが、無鉄砲なことを好んだことから、無理之助と自分でつけたという。 武田家に仕えたのは永禄九年(一五六六)のころからだった。武田の禄を食むようになってからは、姓の名和を縄にもじり、「おれは繩無理之助だぞ」といって、合戦にはもっぱら縄でつくった陣羽織を着用して、しばしば手柄をたてた。武田家中では、他国者とはいえ家柄もよいし、強いし、変わっているし、特異な存在であった。 永禄十三年、駿河花沢城攻撃のときのことだった。 城兵のうちだす鉄砲弾丸や矢の下をくぐって、武田軍中でも猛者として知られた御曹子の四郎勝頼をはじめ、初鹿野伝右衛門、長坂長閑斎、諏訪越中守、名和無理之助ら五人が、城門の手前脇にとりついた。 城門には鎖がさがっている。 それに目をつけた初鹿野伝右衛門が、 「おい、無理之助、あの鎖を槍で突きあげてみろ」といった。 鎖を槍で突きあげてみても、どうということはないが、戦闘中のいたずらである。 「こんなに銃丸や矢が激しくては、そんなことはできるもんか」 と、無理之助はやり返した。 それを聞くと、伝右衛門はさっと飛びだして行って、鎖を槍で突きあげた。そこへ、諏訪越中守もまた飛びだして行って、自慢の鎌槍で同じように鎖を突きあげた。 二人はまもなくもどってきたが、伝右衛門はもどってくると、いきなり無理之助の縄の陣羽織をはぎとった。 「なにをするか」 「なにもこうもあるもんか。敵前での無理がやれぬようでは、 これからは無理之助などといわせんぞ。道理之助といえ!」 伝右衛門はわめいた。 無理之助も負けてはいない。口喧嘩になった。敵前でのことだ。口喧嘩をしている場合ではない。勝頼が仲に入っておさめ、縄の陣羽織を無理之助に返してやった。 しかし、無理之助としては、やはりミソをつけたわけだった。 無理之助はこの城が堕ちた後、浪人軍大将の信玄の弟、信実の下につけられた。 そして、七十騎をあずけられたが、長篠合戦のとき、鳶巣山で戦死した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 13時34分40秒
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