2314225 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月15日
XML
カテゴリ:武田信玄資料室

 無理の通らぬ? 縄無理之助

 武田信玄には異臣が多かった。

    武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 

「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆

 

 

無理之助は上州那波郡の名和駿河守の子で、近隣に響いていた剛の者だった。

 名は宗安。重行ともいったが、無鉄砲なことを好んだことから、無理之助と自分でつけたという。

 武田家に仕えたのは永禄九年(一五六六)のころからだった。武田の禄を食むようになってからは、姓の名和を縄にもじり、「おれは繩無理之助だぞ」といって、合戦にはもっぱら縄でつくった陣羽織を着用して、しばしば手柄をたてた。武田家中では、他国者とはいえ家柄もよいし、強いし、変わっているし、特異な存在であった。

 永禄十三年、駿河花沢城攻撃のときのことだった。

 城兵のうちだす鉄砲弾丸や矢の下をくぐって、武田軍中でも猛者として知られた御曹子の四郎勝頼をはじめ、初鹿野伝右衛門、長坂長閑斎、諏訪越中守、名和無理之助ら五人が、城門の手前脇にとりついた。

 城門には鎖がさがっている。

 それに目をつけた初鹿野伝右衛門が、

「おい、無理之助、あの鎖を槍で突きあげてみろ」といった。

 鎖を槍で突きあげてみても、どうということはないが、戦闘中のいたずらである。

「こんなに銃丸や矢が激しくては、そんなことはできるもんか」

 と、無理之助はやり返した。

 それを聞くと、伝右衛門はさっと飛びだして行って、鎖を槍で突きあげた。そこへ、諏訪越中守もまた飛びだして行って、自慢の鎌槍で同じように鎖を突きあげた。

 二人はまもなくもどってきたが、伝右衛門はもどってくると、いきなり無理之助の縄の陣羽織をはぎとった。                    

「なにをするか」

「なにもこうもあるもんか。敵前での無理がやれぬようでは、

これからは無理之助などといわせんぞ。道理之助といえ!」

 伝右衛門はわめいた。

 無理之助も負けてはいない。口喧嘩になった。敵前でのことだ。口喧嘩をしている場合ではない。勝頼が仲に入っておさめ、縄の陣羽織を無理之助に返してやった。

 しかし、無理之助としては、やはりミソをつけたわけだった。

 無理之助はこの城が堕ちた後、浪人軍大将の信玄の弟、信実の下につけられた。

そして、七十騎をあずけられたが、長篠合戦のとき、鳶巣山で戦死した。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月25日 13時34分40秒
コメント(0) | コメントを書く
[武田信玄資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X