カテゴリ:甲斐武田資料室
罪人を千人斬った今福浄閑 武田信玄には異臣が多かった。 武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆
今福浄閑は永禄十二年、駿河久能山城の番将になって、手勢七十騎を与えられたが、それまでは長い間、桜井安芸守らとともに公事奉行をつとめていた。 四人の公事訴訟奉行の一人である。 武術にも長じ、芸能のたしなみもあった。 ところがこの浄閑、罪人を斬るのが飯よりも好きであった。死 刑のきまった罪人など、執行人があるのだから、奉行が直接手を下さなくてもよいのだが、自分でみな引き受けて斬った。 千人斬ったと噂された。 そのころ、浄閑の子供は次々に病死したので、世間では斬った罪人の崇りだと話あった。当然、本人の耳にも入ったが、平気で、やはり、罪人を斬りつづけた。 そんなあるとき、信州岩村田竜雲寺の法興和尚が用事のため甲府へやってきた。浄閑は面識もあり、高徳の僧として尊敬していたので、挨拶に出向いて行った。 挨拶がすんで雑談になったとき和尚は、 「今福殿は、試しものの罪を重ねていなさるそうじゃな。まことにもって罪深いこと……」 といった。 「いや、あれは、われらが斬るのではなく、科が斬らせるわけなので、 われらは一向に罪を重ねているとは思いませぬ」 浄閑はそう抗弁した。 筋は通っている。和尚は黙ってしまったが、そのうち、いろりに大きな炭をつぐように浄閑に頼んだ。 炭取りの大きな炭は火箸でははさめない。浄閑は千でつかんでついだ。そして、汚れた手を手拭いでふいた。 それを見ていた和尚がいった。 「どうして手を拭きなされた?」 「汚れ申したので」 「さ、そのこと」
和尚は言葉に力をいれた。 「炭を手でつぐと手が汚れるように、奉行たるものが、たとえ罪人でも、 人を斬るとそのこころが汚れ申そう。火箸という首斬り役があるではどざらぬか」 「……」 浄閑は返事をしなかった。 そして、返事をしないままに帰宅したが、以後は罪人を斬らなくなった。 問もなく、久能山城に転じたのだった。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 13時32分18秒
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