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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月15日
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カテゴリ:武田信玄資料室

◇大永1年(1521

113

武田晴信(幼名太郎・勝千代)信虎嫡男として甲府積翠寺の要害城に生まれる〔高白斎記〕

1110

今川氏の都将福島正成、中道町の勝山城にこもる〔高白斎記〕

1123

信虎軍福鳥の兵と荒川上条河原に戦う。福島正成は職死、六百人敗死する〔王代記・高白斎記〕

1127

晴信、府中の館に入る〔高白斎記〕

 

《註》武田信玄伝<誕生から初婚まで>

1、生誕地の生年月日

武田信玄は大永元年(1521)十一月三日、甲府の武田館(騨鰯ヶ崎館)の要害城(要害山)で生まれている。

2、父と母

父は武田家十六代の信虎(父二十八歳)。母は甲府盆地西郡の武田氏一族である大丼信達の娘((母二十四歳)。

3、誕生地

『高白斎記』で、「九月、九島ノ凶()事、十六日乙丑、亥刻富田落城、寅刻御前御城へ御登り、十月十六日丁未、於飯田合戦御勝利、同十一月三日辛亥、戌刻晴信公誕生、蟇目曾根三河守縄長相勤」

《註》これによると、大永元年の九月に、駿河今川氏の重臣である遠州土方城主の福島正成らが大軍をもって甲州へ攻め入り、十六日には大井夫人の企家である西郡の富田城(甲西町戸田)が落城したので、慎妊していた夫人は大事をとって、館の裏手の要害城へ避難し、飯円河原の合戦で信虎が勝利した直後の十一月三日戌刻(午後八時頃)に晴信、(信玄)が誕生。

《註》蟇目役とは祝儀の使者であって、曾根縄長は、後に活躍する昌長の父であろうか。

4、誕生の模様

『高白斎記』十一月二十三日の上条河原(中巨摩郡敷島町)の合戦で、信虎が大勝。後の二十七日に、積翠寺より母子が武田館へ戻った。

《註》文中に積翠寺とあり、同寺に産湯跡などがある。晴信の誕坐地を同寺とする意見もある。

《註》要害城は、その地名から積翠寺城(石水寺城)とも。山頂には現在でも城郭遺構残存する。

《註》駿河勢との飯田河原・上条河原合戦は、信虎の領国経営上での最大・最後の危機で、移転間もない甲府館はいまだ未完成で、周囲の反乱も続発していた時期。信虎は、この合戦の大勝利を記念し、合戦の最中に誕生した子の幼名を「勝千代」と称した(『甲陽軍鑑』)

 

◇大永2年(1522

227

信虎、山梨市大工の天神社本殿を再建する〔甲斐国志〕

817

信虎、富士山に登山する〔妙法寺記〕

この年信虎、身延山で受法し甲府に信立寺を建てる〔甲斐国志〕

 

◇大永3年(1523

424

信虎、甲府湯の島の山城の普請を始める〔高白斎記〕

610

信虎、信濃善光寺に参詣する〔商白斎記〕123

晴信、袴着の式を行なう〔高白斎記〕

この年都留郡大飢鐘、少童痘やイナスリを病み餓死する者多し〔妙法寺記〕

 

◇大永4年(1524

1

信虎、陣立を始める〔妙法寺記〕

211

信虎の軍勢一万八千、猿橋に出陣し、関東管領上杉憲房と対塒する〔王代記〕

関東管領上杉憲房は八十里に布陣、猿橋にて度々合戦あり〔妙法寺記〕

330

信虎、秩父に出陣し、憲房と対時する〔王代記〕

616

一条小山に一蓮寺造営工事開始する〔高白斎記〕

620

信虎、武蔵の岩槻城を攻める〔高白斎記〕

623

信虎、北条氏綱と講和する。氏綱、これを越後守護代長尾為景に報ずる〔上杉家文書〕

 

◇大永5年(1525

325

関東管領上杉憲房、没す〔妙法寺記〕

41

諏訪殿(金刺昌春)信虎を頼り、甲府に住居をあたえられる〔勝山記・妙法寺記〕

82

信虎、向岳庵に禁制を下す〔向岳寺文書」

この年信虎、北条氏綱・今川氏親と戦い、氏綱とは一時和睦なり、氏綱は銭千貫文を甲府へ送る。

今川氏とは利睦なし。

この年猿楽師が甲府へ招かれ、短日能楽の催しが行なわれる〔妙法寺記〕

 

大永6年(1526

619

将軍足利義晴、信虎を上洛させようとして諏訪上社・大祝に対し信虎と和するよう命ずる〔室町家御内書案〕

623

駿河守護今川氏親、没す〔高白斎記・実隆公記〕

730

信虎、富土北麓加古坂の梨の木平で氏綱軍に大勝する〔妙法寺記〕

910信虎、井尻の地頭が向岳庵門前を押妨するを禁ずる〔向岳寺文書〕

108積翠寺城将駒井昌頼、五百貫文を加増され入部する〔高白斎記〕

この年信虎上洛するとの風聞あるも北条異綱との和睦ならず、上洛できず〔妙法寺記〕

 

大永7年(1527

427

信虎、将軍足利義晴に音問する。義晴これを謝し、忠節を励ます。

将軍足利義晴はさらに上野の上杉憲寛、信濃諏訪高家、木曾の木曾義元らに信虎との協力を命ずる〔室町家御内書案〕

63

信虎、信州作久の伴野貞慶を授けるため甲府を発つ。和談成立する〔妙法寺記〕

78

信虎信濃善光寺に参詣する〔高白斎記〕

717

信虎、信濃善光寺より帰還する。この年信虎、今川氏測と和睦し、一国中を走り馬にて触れまわる〔妙法寺記〕

 

享禄1年(1528

516

都留郡大原庄周辺に豪雨、大出水のため田畑に被害〔妙法寺記〕

930

信虎、諏訪上社の諏訪頼満父子と会戦のため諏訪へ出陣、神戸・境川付近で含戦し、敗れて荻原備中守ら戦死する〔諏訪神使御頭之日記・妙法寺記〕

この年信虎、徳政令を出す〔妙法寺記〕

 

享禄2年(1529

524

沙弥道因(信虎)、黒駒の称願寺中ならびに門前の諸役を免許する〔称願寺文書〕

620

中津森の小山田越中守信有の妻、姉と面会のため遠江へ赴く〔妙法寺記〕

1011

信有の妻帰国〔妙法寺記〕

1115

国中と郡内との路次不通なるも、このとき開通して棟別役の徴収が触れられる〔妙法寺記〕

 

享禄3年(1530

17

郡内の小出越申守信有・国中の国人を率いて猿橋に布陣、北条軍と対塒する〔妙法寺記〕

423

小山田信有、北都留郡八坪坂(上野原町)に北条氏綱と戦って敗れる〔妙法寺記〕

この年武州河越城主の上杉靭興、上杉憲房の後室を奪い取り、信虎の側室として贈る〔妙法寺記〕

 

享禄4年(1531

121

甲斐の国人栗原兵庫・飯()富虎昌ら、信虎に叛いて御岳に拠り、援を諏訪上社の犬祝諏訪頼満に求める〔妙法寺記〕

22

信虎、謀叛に走った今井尾張守・大井左衛門督らを斬る〔妙法寺記〕

222

合戦続き諏訪頼満は今井・飯富らを救援のため、笹尾砦を攻めて陥れる〔諏訪神幸記〕

312

河内の国人領主穴山信網没し、嫡男信友が継ぐ〔大聖寺過去帳〕

412

信虎、国人叛将の今井・栗原・飯富氏とその援軍の諏訪氏らを河原部(韮崎市内)まで追撃して破り、栗原兵庫ら戦死〔諏訪神幸記・同神使御頭之日記〕

416

曾根三河守、万力にて戦死〔王代記・妙法寺記〕

この年少童痘を病み死者多し。江州より小猿楽くる〔妙法寺記〕

 

天文1年(1532

9

今井信元、諏訪氏の援を得て信虎に叛く。信虎、これを多麻庄小倉の浦城に攻めて破る。

信元は降参して信虎の膝下となり甲府に出仕、一国平穏無異になる〔妙法寺記〕

この年ムケカウ宗(一向宗)天下にはびこり諸宗と争う〔妙法寺記〕

この年小山田越中守の室、没す。このため小山田氏屋敷を谷村に移す〔妙法寺記〕

 

天文2年(1534

2

都留郡の猿橋が焼失する〔妙法寺記〕

316上吉田に大火あり、上行寺のこる〔妙法寺記〕

8月まで大雨のため耕作不良〔妙法寺記〕

827信虎、奈良原村の広済寺に禁制を出す〔広済寺文書〕

この年、信虎の嫡男太郎(信玄)、上杉朝輿の息女をめとる〔妙法寺記〕

 

天文3年(1535

64

穴山信友、某(薬袋村の佐野氏?)を黒桂・保の金山の代官に任じる〔甲州古文書〕

11

晴信(太郎)の室上杉氏、妊娠するも母子ともに死去〔妙法寺記〕

この年、飢饉飢疫流行する〔妙法寺記〕

 

天文4年(1536

65

駿河が風雲急を侍げ、信虎、軍勢を駿河に出す〔為和卿集〕

6

信虎、八代郡米倉の日蓮宗妙昌寺の諸役を免許する〔妙昌寺文薯〕

815

信虎、窪八幡神祉の石橋を架す。大工は高遠の北原村の右衛門ら〔窪八幡神朴記録〕

8.16

北条氏綱の軍勢、今川氏輝救援のため甲州に向け出兵〔快元憎都記〕

822

都留郡山中で武田軍と北条・今川連合軍が戦い、武田方敗れる。

この合戦で勝沼信友とその部下二百四一十人戦死、武田の殿軍小山旧衆も多数職死、小山田弾圧も戦死する。

上吉田・下吉田も焼かれる〔妙法寺記・快元僧都記・為和卿集〕

824

北条氏綱、甲斐より兵を引く。ついで上杉朝興を河越城に攻める〔快元憎都記〕

917

信虎信州諏訪郡境川に出張り、諏訪頼満と会し諏訪上杜の宝鈴を鳴らして和睦する〔錬訪神使御頭之日記〕

この年信虎、窪八幡神社の鳥居を再建する〔神社本紀〕

 

天文5年(1537

117《晴信、従五位下》

信虎の嫡男太郎、従五位下に叙せられる〔歴名土代〕

211

都留の豪族小林和泉守没す〔妙法寺記〕

3

武田太郎元服し将軍義晴の偏諌を受けて晴信と名のる〔妙法寺記〕

ついで晴信の使い、奉謝のため上洛する〔後鑑〕

417

今川氏輝・弟彦五郎同時に死す〔妙法寺記・快元僧都記〕

68《花倉の乱》

氏輝の同母弟義元(承芳)と異母弟良直(玄広恵探)、今川氏輝の跡目を争い、花倉の乱起こる。義元派は恵探を滅ぼし、義元、守護となる〔妙法寺記・その他〕

信虎、義元を強力に推し、恵探側をかくまった福島一門に白刃を命じる。そのため武田の奉行衆ことごとく国外に退く〔妙法寺記〕

7月≪晴信、婚姻≫

晴信、今川家の斡旋で三条公頼の女をめとる〔甲陽軍鑑〕

923

結婚の見届役と思われる正親町公叙、甲斐より帰京し酒饌を献じる〔御湯殿上日記〕

11

晴信、信濃佐久郡の戦いに初障〔甲陽軍鑑〕

1226《晴信、初陣》

晴信、絢之口城に平賀源心(成頼)を攻めて滅ぼす〔甲陽軍鑑〕

この年信虎、窪八幡神社の若宮社を修造する。奉行は鶴田木工助〔神社本紀〕

 

天文6年(1538

210

信虎の息女、甲斐・今川同盟のため今川義元のもとに嫁ぐ。

北条氏綱、この同盟に怒り駿河に出兵、輿津辺を焼く。

信虎、義元救媛のため須走口まで出兵する〔妙法寺記・快元僧都記〕

427

上杉朝興、没す〔快元憎都記〕

この年御宿監物友綱、武田家に内通し、以後出陣の案内者となる〔妙法寺記〕

 

天文7年(1539

516

北条氏綱の軍勢、この夜存旧新宿を襲い、吉田宿のおとな衆は下吉田河原に避難、その後武田・北条の和議成丸する〔妙法寺記〕

8

信虎と夫人の父大丼信達ら、冷泉為和を招き和歌の会を武田館で開く〔為和卿集〕

1012《晴信の嫡男太郎(義信)生》

北条方の駿河須走衆・八刀衆、上吉田を夜襲し逆に殺される〔妙法寺記〕

この年晴信の嫡男太郎(義信)生まれる〔甲斐国志〕

 

天文8年(1540

10

小林刑郷左衛門尉、都留郁松山に屋敷を新築〔妙法寺記〕

129

諏訪頼満没し、大祝の家を頼電が継ぐ〔調訪神使御頭之日記〕

1215

大風吹き、大水出る〔妙法寺記〕

この年武田・北条の合戦やまず〔妙法寺記〕

 

天文9年(1541

5月上旬

信虎、宿将の板垣に令して信州佐久の数城を陥し、前山城を築〔妙法寺記〕

74

信虎、市川の香具師トニ人の棟役を免除する〔甲州古文書〕

710

信虎、西の海衆の古関の彼を免除する〔西湖共有文書」

82

信虎、信州海之口に伝馬の制を下す「津金文書〕

913

冷泉為和、甲州より婦京の途につく〔為和卿集〕

118

都留の猿橋再び架ける〔妙法寺記〕

1129

信虎の息女禰々、諏訪頼重に嫁す〔諏訪神使御頭之日記〕

129

調訪頼重、武田屋形に婚儀の礼を行なう〔諏訪神使御頭之日記〕

1217

信虎、頼重へ答礼訪問〔諏訪神使御頭之日記〕

 

天文101541

513信虎、村上義清・諏訪頼重らと海野練綱を攻める〔諏訪神使御蜘之日記〕

523

信虎ら、海野平に棟綱を破る。細野氏、上野に逃げ上杉憲政を頼る〔高白斎記〕

64

信虎、晴信甲府に帰る〔高白斎記〕

614

武田晴信、父信虎を駿河今川象に退隠させ、自立する〔.妙法寺記・塩山向岳禅庵小年代記〕

619

小笠原長時・諏訪頼重らを韮崎に破る〔村上義清年譜〕

628

家督相続の儀を行なう。御酌は温井丹波守〔高白斎記〕

923

今川義元、信虎の隠居分について晴信に交渉する〔堀江伴一郎文書〕

!210

八代郷奈良原村の広済寺に禁制を出す〔広済寺文書〕

1223

武田八幡宮本殿を竣工させる〔法善寺文書・棟札〕

 






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最終更新日  2021年04月25日 13時30分56秒
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