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2019年04月17日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

信玄家臣 星を見て悟った判の兵庫

 武田信玄には異臣が多かった。

    武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 

「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆

 

 判の兵庫は江州石寺の生まれだった。

 易学に長じた博士で、天文二十年から易をもって仕えていたが、

印判をもよく占うので、いつからか「判の兵庫」という名前がついた。

 内典外典にも詳しく、人間にまったく邪気がないところから信用を得て、

信州水内郡のうちで、百貫の知行地をもらっていた。

 兵庫が武田家に仕えてから十八年経った永禄十二年の暮から、

翌年の七月にかけて、空に煙のでる星がでた。

 あまり長くでているので、信玄は武藤三河守、下曾根某を問者にして吉凶を占わせた。

兵庫は謹んで占い、つぎのように書きつけてわたした。

 

「そもそも此星と申は、天下怪異の客星なり。雖然今時に当て、

何の大名に悪事の可有之にあらず、於末代吾朝の古高家次第に滅して、

終ことごとく無成給い、武道国中の武家の作法を取失い、

昨日下人かと見れば今日は主と成り、女が男の出立を仕り、新家のだちて、

たとえば無楽に至まで真なる事を不見知して、

嘲を用故、本侍まで一世の間に二度三度づつ、作名字をなさるる世に成候べし。

侍に限らず仏法世法と有之時は、寺方も久しき正法の宗旨は次第に衰微して、

新しき宗旨などといひて繁昌すべし、百姓、商人、貧(非)人まで如此」

(「甲陽軍艦」)

 

つまり、名門の公家衆はなくなり、武家は下剋上の風潮が盛んになり、

一般も軽佻浮薄になるというのである。

 こう占ったあと、兵庫はなにか悟るところがあったのだろう。

この星がでたからには占いはわれらまで、といって、信州の百貫の土地を返上してしまった。

 それから、甲府の町の柳小路に屋敷を買って、

子と孫を商人にし、自分はさっさと近江の国へ帰って行った。

 信玄をはじめ家中の人びとは、その見切りのよいのにあきれた。

 五年ほど経ったころ、近江で兵庫が死んだという噂が伝わってきた。






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最終更新日  2021年04月25日 11時57分12秒
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