カテゴリ:甲斐武田資料室
武田家臣 合戦嫌いの板垣弥二郎 武田信玄には異臣が多かった。 武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆
板垣弥二郎信憲(のぶのり)は、武田家中ではかくれもない老臣、駿河守信方の嫡男だった。 天文十七年、父戦死のすぐあと、その職を受け継いで諏訪郡代になった。 しかし、父が優秀だからといって、息子もできがよいとは限らないという事実を、身をもってしめした。 合戦が嫌いで、諏訪上ノ原城にあるその屋敷で、合戦の批判ばかりしながら遊楽にふけっていた。 甲州軍は信濃侵略に必死になっていたころだったので、こんな行為が許されるはずもない。 とうとう信玄から、つぎの七ケ条から成る詰問状を突き付けられて郡代をクビになり、同心、被官をとりあげられてしまった。
一、先年法福寺合戦の折り、そのほうが仮病を構えて出陣しなかったため、 小山田左兵衛尉の人数と、 そのほうの組備えの人数が小笠原長時方へ攻撃をかけなかったではないか。
まったくその通りであった。合戦はなによりも嫌いなのである。 二、諏訪郡代は甲州と 信州の境を守る大切な役目なのに、遊楽にふけるとは無行儀というものだ。
京下りの遊芸人を集めて、しょっちゅう宴会を催していた。
三、同心、被官につらくあたったのはよろしくない。
同心、被官などにいろいろ気をつかうよりも、遊楽のほうがはるかに面白かったのだ。
四、今度、馬場民部、内藤修理などそのほうより先輩の者どもが懸命に合戦していたのに、 そのほうは見物していたというではないか。
合戦はするよりも見物しているほうがはるかに興味深いのである。
五、甘利左衛門尉は十九歳だが、じつによく働き、晴信の感状を幾通ももっている。 そのほうは信方の子でありながら、手柄は一度もたてたことがない。 晴信を大切に思わない証拠だ。
感状など欲しくもないし、部下に戦わせて領地を侵略する信玄など大切に思えるわけがない。
六、この晴信の噂を度々し、悪くいっているそうではないか。
批判というものは自由のはずだ。
七、諸将間の付き合いも怠っているのはけしからぬ。
話のわからぬ連中と、まじめにつきあうつもりはさらさらない。 詰問状に付記して、右のように答えを入れてみたのだが、 弥二郎のいいぶんも当たらずといえども遠からずであったろう。 身ひとつになった弥二郎は、甲府に連れもどされ、長禅寺に押し込められた。 そんな弥二郎を守護してきたのは、公事好きな曲淵庄左衛門たった一人だった。
「弥二郎は馬鹿者だが、わしは信方様に目をかけられやしたので、ほおっておけやせん」
といってついて来たのだったが、庄左衛門が外出している間に、 寺へ用事にきた本郷八郎左衛門に因縁をつけ、あべこべに斬り殺されてしまった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 11時56分42秒
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