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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月17日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の甲斐入り 天和三年春(?)

 

松尾芭蕉の谷村流寓については未だに諸説があり確定されていないが、明治三年、大虫の稿本『芭蕉年譜稿本』それに勝峯晋風氏の『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒(びじ)の研究』、近いところでは小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』や赤堀文吉氏『天和三年の芭蕉と甲州』(都留高等学校・昭和四十三年度版)らが見受けられる。研究者の中には資料や自説を織り交ぜて定説化を急いで居る人もおられる。

芭蕉の甲斐入りの概要は凡そ次のようである。

 天和二年(1682)の江戸大火の後、天和三年正月頃から五月頃まで、甲斐谷村秋元藩の国家老の高山傳右衛門の世話で甲斐谷村に来て暫く静養したと云うもの。

 貞享元年(1684)から二年にかけて俳諧行脚、『野晒し紀行』の帰り芭蕉は再び甲斐に入った。

歴史上の人物の事蹟を追求した先人の研究には、諸説があり、どの説が正しいのか混乱するばかりである。読んで見ると解明よりさらに謎が拡大する書に遭遇する場合も多い。こうしたことは、歴史研究にはよく見られることで決して珍しい事ではない。これは資料不足の中で研究者の知識と推説が多く含まれるからで、歴史研究や、芭蕉の研究にもこれは言えることである。

さて芭蕉の来甲のことに戻るが、最初に芭蕉の天和二年~三年の動向について考察してみたい。天和二年(1682)の冬十二月、芭蕉庵は焼失したというが、芭蕉死後の最も近い年代で芭蕉の優秀な高弟、宝井其角の『芭蕉翁終焉記』の記述では天和三年冬の事としてある。(註…宝井其角(蕉門十哲の一人・山口素堂とも漢学を始め俳諧でも深い関わりがある)

当時江戸での火事は頻繁に起こり、調べて見れば枚挙に暇が無いし、芭蕉の動向も天和三年それに天和四年の春頃までは不詳なのであり、安部正美氏著の『芭蕉傳記考説』「行実編」では、

 

天和三年(1683)  五 月 甲州から江戸へ帰った。

九 月 山口素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」成る。

十二月 不詳。

天和四年(1684 )   

六 月 風瀑の『丑寅紀行』(貞享三年六月刊)入集。

八 月 ~十二月、門人千里を伴い近畿地方巡遊の途につく。

八 月 中旬頃、『野晒紀行』(『芭蕉年譜大成』今栄蔵氏著)

十二月 故郷、伊賀で越年。

 

芭蕉が甲斐谷村に流遇したと確説に近くなったのは、勝峯晋風氏の『芭蕉の甲斐吟行と高山麋塒』の次の記述にあると思われる。

 

天和二年師走の振袖火事は、突如芭蕉庵包んで一瞬の裡に拝燼とした。其角の「芭蕉翁終焉記」(枯尾花所載)は最も正確な芭蕉傳の第一文献であるが、「天和三年の冬深川の草庵急火にかこまれ」て、芭蕉は「潮にひたり」岸に舫ふ「苫をかづきて、烟のうちに生のびけん」と叙する九死に一生を迯れた。「爰に如火宅の變を悟り」て落延び、「無所住の心を發して行く所を定めず」流竄した。「其次の年、夏半に甲斐が根に暮らし」と述べるから、天和三年の夏は甲斐の国で暮らした譯である。其の「甲斐が根」は通説の初雁村(成美及び湖中説)よりは、「富士の雪みつれなければ」の文に徴して、もっと岳麓地方であらねばならぬ。郡内の城を擁する谷村は秋元藩の麋塒が、国詰の邸を構へたので、芭蕉はその谷村に客寓した新説を提出する。江戸から二日路の猿橋を通って、初雁村(今の初狩)立寄ったかは知れない。こゝに寄宿したのではない。

 

と記されている。これ以来芭蕉の甲斐谷村流寓説は高まる。

 

秋元家の谷村城の地図によれば、高山傳右衛門の家は特別な位置にはなく、城を囲むように、正面には高山五兵衛の屋敷があり、右には安中大兵衛・高山源五郎の屋敷、その間の町屋に囲まれた通りを出て、土田見徳の屋敷があり、その隣が高山傳右衛門の屋敷である。地図は寛永十年から宝永元年までの絵図とされているので、家屋敷は秋元家が武州川越に移封する末年のものと思われる。

屋敷の位置から推察すれば、この時期の伝右衛門は国家老の屋敷の場所としては城中より離れていて、いささか疑問が残る。

其角の『芭蕉翁終焉記』(『枯尾花』上巻所集。元禄七年十二月刊行)によると、

 

(前文略)

天和三年(諸書には二年の間違いとある)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかつぎて、煙のうちに生きのびん 

是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り、無所性の心發して、其次の年夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪みつ

れなればと、それより三更月下入ル 無我 といひけん。昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて焼原に舊庵を結びしばしも心

とゞまる詠にもとて、一かぶの芭蕉を植たり。云々

 

天和二年(1682)の火事は十一月二十八日、巳の刻牛込川田窪竹町より出火し、芝札の辻に至る。

とあり、この火事の後芭蕉や素堂など諸俳人は一時所在所不詳となる。

其角の『芭蕉翁終焉記』は火事の起きた年時については天和三年と記してあり、多くの研究者は天和二年の間違いと指摘されているが、芭蕉の高弟であり、『枯尾花』は芭蕉の追善集であり、当時の門弟や俳人達の記憶も十二年前の事で、仮に其角の記憶違いがあったとしても編集時に正されているはずである。

この頃の谷村の城主は秋元但馬守喬朝で寺社奉行から若年寄に昇進した。(小林氏著本)天和二年には大手辰ノ口松平因幡守の屋敷を賜わるが、天和二年の火事で類焼する(小林氏著本・岡谷繁実輯)

この秋元但馬守に山口素堂は蚊足(和田源助)を口入れしている。(風律『こばなし』)

蚊足は書・畫が著名であり、芭蕉歿後、芭蕉像を描き庵に置き人々が「まるで芭蕉が生きて居る様だ」と評判になったと云う逸話の持ち主で、又、その画像に素堂の賛があるものも見られる。秋元家に召し抱えられた当時の知行は御番方二百石であった。蚊足と芭蕉の交際は古く芭蕉の最初の選集『貝おほひ』にも名が見える。

天和三年(1683)九月に素堂の呼びかけで(『芭蕉庵再建勧化簿』)芭蕉庵の再建が成る。この素堂の『勧化簿』の真蹟を所持して居た上州館林松倉九皐は嵐蘭の姪孫であり松倉家は祖父が嵐蘭(蕉門十哲の一人)の兄弟で、その子の右馬助正興の時秋元家に仕へ、累進して家老と成る云々。(勝峯氏)嵐蘭と素堂の交遊も長年にわたった節があり、そうした資料もあるがここでは提出は避ける。

この様な背景のなかで、芭蕉は秋元家の家老高山傳右衛門繁文(俳号…麋塒)を頼って

甲斐谷村に流寓したとの著書が見える。しかしその事実を伝える歴史資料は曖昧であり、現在も諸説があり確定して居る訳ではない。後世書されたものにはその年時を示す資料の出が不明で、著者の思い込みが強く感じられる。

そしてまるで規定事実のように紹介されている書や紹介が多くなり、不確かなまま定説の道を歩んでいる。

 






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最終更新日  2021年04月25日 11時46分17秒
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