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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年12月11日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著

 

 

一部加筆 山梨県歴史文学館

【註】

この記事ほど、府川芭蕉庵について的確に詳細に記した書は他に見えない。

 

★★二つの水道★★

 

玉川上水が江戸に引かれた約十年後の、寛文五(一六六五)年ころから、江戸水道の魁(さきが)けをなした神田上水の修理が、しきりに行なわれだした。

 この神田上水は家康入国直後から計画され、実現した近世都市最初の水道である。この上水の水源は平川である。

 平川は遠く井頭池(武蔵野市)・善福寺池・妙正寺池(ともに杉並区)に端を発し、「落合」(新宿区)で合流し、目白台地の裾を洗って、現在の飯田橋➡俎橋➡一橋を経て、大手門付近から日比谷入江(皇居外苑)に注いだ。

 

「江戸」とは 〔江の戸〕つまり入江の人口の称であり、平川河口に江戸氏が興り、太田道灌の城が江戸城と呼ばれたのも、ともにその地形的特徴をもって名としたものである。

 天正十八(一五九〇)年に家康が入城した江戸城は、その約百三十年前に道濯が築いた城である。それを天下の将軍の居城として秀忠-家光-家綱の四代、約七十年かけて拡張したのが、現在もその遺構を目の当りにする江戸城と都市江戸であった。

 そしてこの大建設を支えた施設の一つが平川(現称は神田川。支流は日本橋川)」を利用した神田上水である。

 だがこの水道は名が示すように城の北部-北東部にかけた神田の地域に給水範囲が限られる。さきの玉川上水はそれ以外の地域に及ぼす水道の新設であった。玉川上水は城がほぼ完成した時期から着工された。つまり城の完成と同時に、それを支える市街地が決定的な水不足に見舞われたための措置だった。それほど江戸は当事者の予想を超えて、膨張し巨大化したのである。

 

★★堰と関口★★

 

神田上水は平川の水を、目白台直下(現在の文京区関口二丁目 大滝橋辺)で取止め、そこから水道を分水させた。

今様にいえば堰(せき)とはダムである(以後の水道経路・導水施設などについては省略する)。

取水口が取口であり水道の関門の意味を兼ねて、関口という地名が定着した。またダムから落ちる水が滝となり、ドウドウと音を立てていたため、俗に関口のドンドン、いまその跡にある嬌名にも大滝の名が残る。

 しかし建設期の江戸を支えたこの水道も、敷設以来約七~八十年を経ると、絶えず修理を必要とするほど老化した。

以後、明治三十四(一九〇一)頃まで使用されたのだが、これは寛文~延宝(一六六五~八〇)ころから開始された不断の維持管理によるものでお入る。

 以上は現存する公文書により、その状況をくわしく知ることができる。

 

★★桃青(芭蕉)と神田上水★★

 

ここに二通の延宝八年中の公文書、正規には「町触」がある。町触とは町奉行が交付する法令である。具体的な交付町奉行が町年寄を経由させ、市中の各名主に通達し、名主はその支配下の町役人(大家―家主―差配)に命じて、一般に町奉行の意向を周知させる法令文書である。但し付きの町触は『町年寄三人』の名義で交付される。

 

 『延宝八年(1688)年、神田上水惣払 町觸』

    覚

  六月十一日     町年寄 三人

    覚

一、明後十三日 神田上水道水上惣払有之候間 

致相対候町々ハ 桃青方へ急度可被申渡候 

桃青相対無之町々之月行持(事) 

明十二日早天ニ 杭木、かけや水上迄致持参 

丁場請取可被申候 勿論十三日中ハ 

水水きれ申候間 水道取候町々ハ

左様ニ相心得可被相触候 

若雨降候ハゞ惣払相延候間 

左様ニ相心得可被申候 以上

 六月十一日    町年寄 三人

 

   覚

一、明廿三日 神田上水道 水上惣払有之候間 

桃青と相対いたし候町々ハ 急度可申渡候 

相対無之町々ハ人足道具為持 明早天 

水上汪罷出可被申候 勿論明日中 水切候回 

町中不残可被相触候 少モ油断有間敷候

    六月廿二日     町年寄 三人

 

 前の「覚」の大意は、水上の親日とその付近に堆積した土砂の惣払=掻い掘作業実施の公示である。

上水流下の町々は水銀(水道料)を負担する外、このような臨時的工事・作業がある場合は、一定の割合で人夫・道具の供出を義務づけられた。

「覚」は工事前日までに現地の水番人の桃青と、かねてから定まっている持場の確認を行なうこと。

また未確認の町々も町役人の当番が、前日早朝までに関口に道口を運び、桃青から持場を知らせてもらうようにすること。

 当日は市中は断水するので、よく一般に知らせておくこと。

また雨の場合は作業は繰延べだから承知しておくように、

というものである。

 

 後の「覚」は十三日が雨だったため、二十三日に日延べすることを告示したもので、内容は前の「覚」と同じである。

 

 さてこの二通の町触中に桃青なる文字が再三現われる。

 

初め上水管理は幕府直営だったが、承応二(一六五三)年の玉川上水開削の場合は、工事もそれ以後の管理も請負人の町人、玉川兄弟にまかせる方式をとった。

神田上水も寛文元(一六六一)年から、直営管理を改め、「覚」の発行者名にみるように、町年寄に移管された。

町年寄の身分を強いて現在の制度にあてると、東京都庁における副知事に相当しよう。この職は世襲でそれぞれ役宅を持ち事務を執った。これを町年寄役所と呼ぶ。

したがって桃青は町年寄役所の多くの分掌機構のうちの一つ、開口水番所の番人の名だということになる。

 

しかし当時のこの種の公文書にみる限り、桃青の名はいかにも場違い、ないしは異質である。寺社関係や学聞所関係ならばいざ知らず、町年寄役所下役身分は当然町人……の名としては、まさに異例である。

 

★★蜀山人の考察★★

 

 さすが綱眼の大田南畝は、この点について、その『一話一言』(別名「駿台漫録」)で、これを取り上げ左のごとき考察を加えている。

  

いふところの桃青は、或は松尾宗房か。

のち二年すなはち天和二年九月二八日の

惣払町触には六左衛門と有り。

   恐らくは神田上水水役 

内田六左衛門其人なるべし。

水役は三年寄に属して、水上の監視を掌り、

惣払普請等の外、極めて閑散なる職也。

六左衛門の前の宗国亦、三年寄の好意に由り、

此の閑職に在りて、糊口の資を得、

以て専ら力を俳諧に用ひたりし者に似たり。

 関口芭蕉庵は、世伝へて宗国の遺跡と為す。

或は当時の水番小屋なりしやも知る可からす。

「風俗文選」所載の小伝に、

  

芭蕉翁者、伊賀之人也。武名松尾甚七郎、

奉仕藤堂家。壮年時辞宜、遊武州汪戸、

風雅為業、号桃青。

乃 俳諧正風体中興祖也。宿世為遺功、

修武州小石川之水道、四年乃或。

速捨功、商人深川芭蕉庵出家。年三十七。

 

と有り。此に拠れば宗房水役在職中、

年に亙るの上水工事に従ひだる者の如きも、

其竟に如何なる工事なりしやを知らず。

宗房年三十七の日は延宝八年此の惣払有りたる時也。

是より先四年、延宝五年前後に於ける上水工事は、

元吉祥寺前、乃至水上石煩悩等の普請有りしも、

多くは修理にして偉績を後世に伝ふるに足る可き

大土工有りたるに非さる如し、

此外の諸書亦

  芭蕉董桃青、幼名松尾金作、後報七郎と改、

藤堂和泉守殿家来也。

目白台下上水掘割の時、

甚七郎其事をつかさどりしとぞ。其

後日光御普請の事をつかさどりし時、

何やらんあやまちありて、

道はたの僅は馬にくはれけり 

といへる句をして、仕官の望をたちしとぞ。

  又藩中を亡命せし時の句とて、人のつたへしは、

さまざまの事志ひ出す桜かな。

今も松尾半左衛門といへるは、この弟の家筋也といふ。

 

と、宗房改め桃青が町年寄(三人の中の誰か)の庇護を受けて、水番人として関口に起居していたことを、文中の「請書」の引用し、通説をさりげなく否定しながら、主張している。なお現在の芭蕉庵は文京区関口。駒塚橋から目白台に昇る胸突坂の右手にある。

だがこの位置では平川が見えず水番小屋にはならない。明治期の写真では坂の下に水神社と庵が並んだものがある。さらに水番小屋という公の施設に、桃青が「竜隠庵」なる俗称を私称したとすると、荒唐無稽が胸を突く。

 また南畝の指摘どおり桃青が深川に出家したのは延宝八年。それにもかかわらず同年六月までの公文書には桃青の名がある。これは通説のごとく深川に起居し、必要に応じて関口まで…超勤…したとも考へられるが、瀞たる水番にそれほどの自由があったとも思えぬ。強いていうならば六月の惣払以後、本番をやめて深川に移り、出家したともいえる。

 

★★深川へのみち★★

 

 さて本題の芭蕉の舞台深川に目を移そう。

その前になぜ神田上水の堰が、本来の平川河口の大手町付近から数えても約七キロメートル、二里弱のところにつくられたかということを考えよう。その最大の理由は潮汐の干満にある。

今も干満の水位の変化は江戸川橋までにおよぶ。目下河川改修の最中で、旧観を偲ぶ術もなく汐入り現象は以前ほど顕著に見られないが、辛うじて認められる。

 つまり堰の位置は真水と汐入りの水の境につくられたのである。

 平川は万治三(一六五九)年から翌年にかけて大改修を受けた。

関ロ➡飯田橋➡三崎橋から日本橋に流れた平川は、三崎橋から水道橋➡御茶の水➡和泉橋➡柳橋➡隅田川間の延長約三・五キロメートルの運河神田川にその下流をつけかえられた。途中の御茶の水の「渓谷」は本郷台地を掘り割ったものである。

 この神田川開削は仙台の伊達家が幕府で施工した。工事の目的は平川の洪水が城を直撃するのを防ぐための放水路であり、同時に江戸湊の舟運を内陸部に延長することにあった。神田川の出口の対岸は本所であり、その下流は外ならぬ深川である。関口と深川は神田川を仲立ちとする一衣帯水の関係にあった。

 

★★深川のおこり★★

 

 家康は江戸入り直後、城の手入れは二の次に神田上水工事と共に、江東地区を東西に通じる運河小名木川を掘らせた。それは当時の関東地方最大の製塩地行徳との交通を確保するための工事だった。謙信と信玄の故事を引くまでもなく、飲み水と並んで塩は重要な戦略物資だった。

 小名木川を「掘らせた」とはいえ、その実態は小名木川の北岸の線が、当時の海岸線であり、その海岸線を確定させて舟運に便利な水路を整備するものであった。

 そして小名木川南岸を形成させるため、家康は慶長八(一六〇三)年、摂津田出身の深川八郎右衛門に本格的な埋立事業を命じた。

 それゆえ小名木川は陸地を掘ってつくった運河ではなく、海岸線を埋め残して運河としたのである。以後現在まで江東地区の東西方向の運河のすべては、海を埋め立ててゆく過程で、水路として埋め残されたものであり、いずれも各時代の東京湾埋立事業の「年輪」の意味を持っている。

 

 ちなみに現在の江東区の前区名である深川区も、地名としての深川も、すべ才この深川氏の姓に因むものである。江戸と摂津国の住民とは非常に縁が深く、中世から相当な交流があった事が知られ、また深川氏と同時期には佃島の漁師も摂津から呼ばれている。

 

★★埋め立ての拠点★★

 

 隅田川にかかる新大橋を渡った南側、小名木川と隅田川の合流点にかかる万年橋北詰一帯を深川元町(現在の江東区常盤一丁目)といった。この辺が家康時代の隅田川と平川の河口でもある。この河口都の川岸に沿った自然堤防(川の氾濫の都度、上流から流された土砂が川岸に堆積して形成した微高地)の上が、深川干拓の拠点だったことは、元町という旧地名で察せられる。

 そして旧元町の一雨(江東区常盤一上士に大正十年十一月、東京府が指定した「芭蕉翁古池の跡」(現在は都指定史跡)がある。しかしこの史跡の位置には異論があり、その東側約二百メートルの旧六間堀川と小名木川の合流点にかかっていた猿干橋辺を庵跡とする見解がある。川も橋も姿を消したいま、ところの有志による芭蕉稲荷の祠堂が旧跡のしるしをとどめる。元禄五(一六九二)年の芭蕉の句に

「年々や 猿にきせたる 猿の面」

というのがあるが、これは猿子橋付近の庵のゆかりの句ともいう。

 それよりもこの猿子橋旧跡の主張は、古図に明らかなよ

うに、小名木川と竪川を南北にJ埋くの字〃に結んでいた六間堀の形かられかるように、この一画は隅田川河口の東京都の自然堤防の姿を如実に現わしている。この自然堤防のつらなりは、小梅(現吾妻橋)、本所、深川と続くものである。

 江東地区の干拓は、この南北に続く川岸の微高地を足場に、まずその幅を拡げてゆき、やがて南へ南へと海を埋め立てたものである。もちろん元町の東南の富岡八幡宮のあたりをはじめ、沖合には砂洲がひろがり、ある程度の陸地化か進んでいたのだが、それらは満潮時に辛うじて水没しない程度のものであった。

 干拓の先駆者深川氏におくれること二十六年、寛永六(一六二九)年江戸城の本格的工事の進行と歩調を合わせ、干拓団第二陣が深川に投入された。場所は小名木川南岸の「汐除堤之外 干潟之場所」に、深川猟師町として入植が認められている。干拓団は八名の引率者によるもので、埋立地にはそれぞれ引率者の名がつけられた。次の( )内は引率者の姓、名はそのまま町名に、〔〕内は元禄八(一六九五)年に当初の町名が改称された時のものであり、〈〉内は現称である。

なお引率者のほとんどは名主に任命されている。

 (大館)弥兵衛町〔清住町〕〈清澄〉。(福地)次郎兵衛町〔佐賀町〕

(松本)藤左衛門町〔佐賀町〕〈佐賀〉。(相川)新兵衛町〔相川町〕

(熊井)利左衛門町〔熊井町〕・(諸)彦左衛門町〔諸町〕

(福島)助十郎町〔宣告町〕以上〈永代〉。

(斎藤)助右衛門町〔黒江町〕〈福住〉。

 

その沖合に明暦三(一六五七)年から干拓された〔大嶋町〕〈大島〉などが、いわゆる深川猟師町の沿革である。

 いずれも町とはいえ、漁村であり入植の翌年の寛永七年より、月に三回キス・セイゴなどの魚類と、臨時的に蝸・蛤、七月十五日には手長海老百尾の貢納を義務づけられた

(寛政四年=一七九二より金納化した)。

なお大島町は永代島と同じく沖合いの砂洲から埋め立てがはじめられたもの

である。また佐賀町の名の由来は、埋立地の風景が肥前佐賀に似ていたための命名という。佐賀ゆかりの者が干拓団にいたことを証するものである。

 さらに第三次入植は慶安年間(一六四八~五一)に野口次郎左衛門を長とする干拓団が、小名木川南岸に海辺新田を造成した。

第四次は万治二(一六五九)年に、三浦半島久里浜から移住した砂川氏により、干拓が行なわれた。これが深川と同様、砂村から砂町、そして現在の北砂・東砂・南砂二帯の地の起こりである。

このような陸地化埋め立当時の深川 江戸との交通は舟によるほかになかった江東地区は、江戸を壊滅させた明暦大火(一六五七)を機会に、改めてその

存在が再認識された。すなわち大火を境に深川は江戸湊の倉庫地帯に変貌しうそれとともに市街地化も進んだ。さきの大島の干拓、〈砂川氏移住は江戸復興計画の一環でもあった。

 また砂川移住と同年の万治二年、初めて隅田川に両国橋が架橋された。これにより江東地区とくに本所一帯は急速に発展をはじめた。両国構の「両国」について付言すれば、武蔵国江戸にたいする江東地区は、当時は下総国葛飾郡であり、武・総両国を結ぶとの意昧での嬌名である。葛飾郡が武蔵国に改編されたこのは、架橋二十七年後の貞享(一六八六)年間三月のことであった。

 

元禄六(一六九三)年には、芭蕉が

「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」

と渡った新大橋が架けられ、ついで三年後には永代橋も架橋された。

 芭蕉の時代の深川は、このように諸国諸人が寄り集まる人間の…るとぼ‥であり、深川をめぐる海と水路は、江戸湊の一部として全国の物資の集散センターだった。そして一方では都市廃棄物の塵が舞いあがる新開地でもあった。

現在でいえば当時の深川はさしづめお台場のはるか沖合の東京湾第十三号埋立地に匹敵するだろう。

 また関口の方も当時の距離感からすれば多摩湖(村山貯水池)あたりに比定しても、さして無理ではなかろう。

 見ようによっては、深川も関口も居ながらにして芭蕉が本領とした「旅」が出来る場所だったといってもよい。

 関口では「風雅為業」は成り立たず、水番にしてなお桃青という名を棄て切れぬ芭蕉が、建設途次の雑踏の深川に移ると水を得た魚のように新境地を関いたという所が面白い。

 

★★芭蕉庵 四軒★★

 

手元の「芭蕉年譜」(昭和十年 高木蒼梧編)では、芭蕉は延宝八年に「深川六間堀なる杉風の別墾」に移住とある。

これを『風俗画報』の山下重民の請書集録による考察では延宝二年のこととし、「幕府の御納屋(注=この場合は活魚上納人)なる鯉屋杉風にしられ、深川の別荘を借る。」「六畳一間の茅屋也」

とあり、

『続江戸砂子』では

「芭蕉庵の址、六間堀鯉屋藤左衛門と云魚賈售‥の生簀屋敷の所也」

とし、例の古池の句はここで作られたとする。鯉屋藤左衛門杉風は、あるいはさきの佐賀町の草創の一人、松本藤左衛門と同一人であったかも知れない。こうした芭蕉周辺の人物の穿繋をすればキリがないので、以下高木の「年譜」を追うことにする。

 この茅屋は翌々年の天和二(一六八二)年の江戸大火が深川に飛び大して類焼。一旦甲州に逃げたが翌三年五月、「新芭蕉庵」が出来たので深川に帰る。この新庵の位置は不明である。

 元禄四年の項に近江の堅田から

「十一月初め江戸に着き、橘町(注=現中央区)の仮寓にこの冬を過す」

とあり、翌五年の項では

「杉風等の合力にて深川旧庵の付近に四度目の草庵出来、橘町の僑居より移りしは五月なり」

とする。

「年譜」にはないが大和三年から元禄四年までの八年間に、もう一軒の芭蕉庵が出来、何らかの理由で滅失していたことを思わせる「四度目」の草庵の記事である。もっともこの八年間の大部分は芭蕉は深川にはいなかった。

 ともあれ新開地深川では六畳一間の茅屋でも、わずか十二年間に「四度」も建てかえなければならぬほどの、喧騒をきわめた環境であった。この新開地の「古池」とはどんなものであったのだろうか。理に棹させば自然堤防上に古池のありようはない。埋め立ての低地の汐気の多い水溜りに、蛙が生きられたのだろうか。無常の汐水に蛙投身とはけだし滑稽の境地というべきである。

 古池といい蛙といい俳諧談林の木立を通して、「正風」すなわち蕉風を興すには、深川は正に打ってつけ乃場所でもあった。

 

 すずき まさを 都市文化研究所理事 筆

 






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最終更新日  2021年12月11日 18時13分15秒
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