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2019年04月17日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

昭和四十三年、都留高校、『研究紀要』赤堀文吉氏の労著『天和三年の芭蕉と甲州』

 

ここに昭和四十三年の都留高校の『研究紀要』があるがその中に赤堀文吉氏の労著『天和三年の芭蕉と甲州』と云う論文がある。

一般にこうした著書は軽んじがちな風潮があるが、私はこうした地域文化を掘り起こした著作を大切にして居る。そこには自ら苦労して研究された汗が滲み出ているからである。先生にお会いする機会には恵まれないが、古本屋で出会ったこの書をいつも眼の届く所に置いておくことにして居る。

それによると、

 

『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊)

 

芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、

 

『奥の細道管菰抄』(蓑笠庵梨一著。安永七年・1778刊)

此時仏頂和尚甲州にあり。祖師は六祖五平を主とすと一書に見えたり。六祖五平は高山氏にて秋元家の家老也。幼名五兵衛、後主税と言は通称にて、今も猶しかり。六祖の異名は仏頂和尚の印可を得しより、其徒にての賞名也。祖師と同弟なれば寄宿せられし也。今高山氏に祖師の筆蹟多し。米櫃の横にさへ落書せられしもの残れり。

『芭蕉翁略傳』(幻窓湖中著・弘化二年・1845)の一説に、

甲州郡内谷村の初雁村に久敷足をとどめられし事あり。初雁村之等々力山万福寺と言う寺に翁の書れしもの多くあり。又初雁村に杉風(鯉屋・芭蕉の門人・友人・伊勢出身とされる)が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ杉風より添書など持たれて行れしなるべしと言う。と云う説である。

 

『芭蕉翁消息集』(芭蕉の真筆とされる。元禄三年説あり)

北枝宛書簡(加賀金沢如本所蔵・『芭蕉年譜大成』では元禄三年四月二十四日付けとある)

には自己の火災の体験を伝えている。

「池魚の災承、我も甲斐の山里に引き移り様々苦労いたし候ば、御難儀のほど察し申し候云々」

とある。北枝宛の書簡は年不詳ではあるが、芭蕉自身の口から甲斐の山里に云々とあり、

彼の素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」の著が天和三年九月である事から天和二年十二月の大火の後であろう事は推察出来るが確証はなく、芭蕉書簡の内の「様々苦労いたし候ば」は何を意味しているのであろうか。

又芭蕉の甲斐入りの折りに、寄寓されたとする万福寺境内には、万福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられている。ある調査によれば真蹟であると云われている。又初狩村には芭蕉の最も信頼する杉風の姉が居たとする説も軽視するわけにはいかない。それを示す資料が見当たらないからと言って「事実が無い」ことにはならないのである。主張する説を定説にする為に他の説の抹消は避けなければならない。可能性を残して後世の研究に委ねる事が大切である。

芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな影響を及ぼしたのは、大虫(明治三年没)の稿本『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。小林佐多夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略は、

 

それまで六祖五平という定かでない人物を頼っていたとする芭蕉の甲斐流寓の旧説を打破して、秋元家の国家老高山傳右衛門繁文(麋塒)を頼ったとする新説が大きな要因を占めていると思われる。芭蕉は江戸大火の直後に浜島氏の家に仮寓していて、芭蕉が参禅していた仏頂和尚の門に居て、芭蕉の門弟でもある高山麋塒の帰国の際に芭蕉を誘い、さらに杉風にも相談すると、姉が甲斐初雁村にいるので折々滞留して下さい、との申し出に芭蕉も甘んじる事となる。この際、麋塒の別荘を「桃林軒」と号し、芭蕉はこの「桃林軒」を寓居と定め、心のまゝに城外にも逍遥し玉ふ、云々。

 

大虫の説と勝峯晋風氏の説が重なり揺るぎないものとして「芭蕉の甲斐谷村流寓」が定説化に向けて進んだのである。しかし確たる資料を持たないものは、研究者の論及も仮説、推説であって定説とはならないのである。

 

芭蕉の来甲した時期であるが、秋元家の知行所一帯で溜まりに溜まった秋元家への不満と生活の困窮から怒りが爆発した。

延宝八年(1680)の郡内百姓一揆である。騒動は拡大して百姓総代が江戸町奉行に越訴して、受け入れられず翌九年(天和元年・1681)二月二十五日には谷村城下の金井河原に於いてはりつけ及び斬首と云う極刑で幕を閉じる。当時の谷村周辺の庶民生活の困窮振りが忍ばれる。騒動が続く中でも秋元家の幕府の役職での躍進は進み増税が進み、庶民の困窮振りはさらに悪化していたと推察できる。芭蕉の谷村流寓は、そうした時代背景の中で為された事なのである。

芭蕉の火災遭遇期秋元但馬守の江戸屋敷も焼失していて高山麋塒も大変であったはずである。そんな時期に高山麋塒は芭蕉を伴いや村に向かったのであろうか。

芭蕉は決して恵まれた環境の中で甲斐を訪れたわけではない。芭蕉の書簡の「様々苦労いたし候はば」こうした時代背景を意識していたとすれば、妥当な文言ではある。

さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。

 

天和二年(1682)

十二月二十八日 芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。

 

天和三年(1683)

 一月 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に

「天和 三癸さい旦」として記載。)

元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦)

春、(一月~三月)五吟歌仙成る。

【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭

花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉                             

夏 四月~六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。

一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。

この後の五月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。

芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。

 

天和二年       

餅を焼て富を知ル日の轉士哉    麋塒

参考 烟の中に年の昏(  )けるを

霞むらん火々出見の世の朝渚    似春

天和三年       

浪ヲ焼かと白魚星の遠津潟     麋塒

雨花ヲ咲て枳殻の怒ル心あり    麋塒

《連衆…露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・云笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》

人は寐て心ぞ夜ヲ秋の昏      麋塒

花を心地狸に醉る雪のくれ        麋塒

 

参考 花を心地に狸々醉る雪のくれ (『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』)

これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、この火事では秋元家の江戸屋敷も火災に見舞われているので、国家老との高山麋塒にしても芭蕉の処遇どころではなかった筈である。又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。

次の歌仙が芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。

 

………逗留中三吟歌仙二巻………

『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。

「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】

胡草垣穂に木瓜もむ家かな      麋塒

笠おもしろや卯の実むら雨      一晶

ちるほたる沓にさくらを払ふらん  芭蕉

 

『一葉集』湖中編。文政十年(1827)刊。

夏馬の遅行我を絵に見る心かな        芭蕉

変り手濡るる滝凋む滝            麋塒

蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て        一晶

 

当時は春(一月~三月)夏(四月~六月)秋(七月~九月)冬(十月~十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。

私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期に行われたのであろうか。

 

『虚栗集』所載の句…………………………

○ 酒債尋常往處有人生七十古来稀ナリ

詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)哉 其角

-湖日暮て駕(ノスル)馬ニ鯉    芭蕉

(以下略)

改夏

ほとゝぎす正()月は梅の花   芭蕉

待わびて古今夏之部みる夜哉    四友

山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧        素堂

(以下略)

○ 憂テハシテハ

花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉

眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩       一唱

(以下略)

《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》

○ 素堂荷興十唱(略)

○ 改秋

臨 素堂秋-池

風秋の荷葉二扇をくゝる也      其角

 

『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙                                                               

憂方知酒聖 ・貧始覚銭神

花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉

眠ヲ尽す陽炎の痩せ            一晶

 

『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月~十二月)の句である。

芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。

さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっているが。

国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。

素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』編集には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』(其角撰)には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。

素堂は、この序文の中で、諸先生方が芭蕉の唱えた説と指摘する、「不易流行」説を既に提唱している。(本文参照)

其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけを承知していた筈である。

 

九月、江戸に帰リ、住む所が定まらない芭蕉をみかねて、親友素堂が呼びかけで芭蕉庵を再建する。

 

山口素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』(天和三年秋九月)。

 

芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。

力を二三生にたのまんや。

めぐみを数十生に待たんや。

広く求むるは却って其おもひ安からんと也。

甲をこのまず、乙を恥づる事なかれ。

各志の有る所に任すとしかいふ。

これを清貧とせんや。

はた狂貧とせんや。

翁みづからいふ、ただ貧也と。

貧のまたひん、許子の貧。

それすら一瓢一軒のもとめあり。

雨をささへ、風をふせぐ備へなくば、

鳥にだも及ばず、誰かしのびざるの心なからん。  

是草堂建立のより出づる所也。

天和三年秋九月 竊汲願主之旨濺筆於敗荷之下 山素堂

 

さらに、芭蕉庵の造作は進み、

冬、ふたたび芭蕉庵を造り営みて(年不詳)

霰聞くやこの身はもとの古柏

芭蕉(下里知足『知足齋々日記』記載)

となっていく。

又芭蕉の甲斐流寓に同道したとされる芳賀一晶は、

天和三年、歳旦帳を出してその春に江戸に下り、

芭蕉等と一座し誘われてその夏を甲斐国に過ごした(『俳文学大辞典』、一晶の項…白石悌三氏著)と記載されている。

芭蕉の甲斐流寓について触れている研究文献は多く見られるので、ここでそれ等を整理してみたい。

 






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最終更新日  2021年04月25日 11時45分42秒
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