2312904 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月17日
XML
カテゴリ:松尾芭蕉資料室

芭蕉の谷村流寓については次の地域の研究文献がある。それは『都留高校研究紀要』である。

都留高校『研究紀要』(「天和三年の芭蕉と甲斐」)によると、

 

一、六祖五平を頼る。『随斎諧話』(夏目成美著・文政二年・1819刊)

二、杉風の姉を頼る。『芭蕉翁略伝』(岡野湖中・弘化二年・1845刊)

三、麋塒を頼る。(但し、六祖五平を麋塒とする)『奥細道管菰抄』(安永七年・1778刊)

又、研究者の論議については、

一、岩田九郎氏…『芭蕉の俳句俳文』

 仏頂和尚の弟子六祖五平を頼る。翌年夏まで逗留。

二、小宮豊隆氏…『俳句講座』   

同内容

三、山本健吉氏…『芭蕉』 

同内容 五月まで滞在。

四、荻野清氏…『俳諧大辞典』   

塒麋に伴われて谷村逗留。

五、飯野哲二氏…『芭蕉辞典』 

同内容 仏頂和尚の紹介で五平の許に身を寄せる。

六、穎原退蔵氏…『芭蕉読本』

『随斎諧話』を引き、夏目成美の学識を重視する。

七、目黒野鳥氏…『芭蕉翁編年誌』 

三、四月の交り、六祖五平を頼る。

八、高木蒼梧氏…『俳諧人名辞典』 

甲州谷村の城代家老高山繁文(麋塒)を頼る。

九、『校本芭蕉全集』

 罹災後のある時期、甲斐谷村の高山麋塒(秋元家家老)を頼り、翌年五月頃まで逗留する。

十、高木蒼梧氏…『俳句講座』

 杉風の家系には姉は居ない。万福寺は初狩村では無く勝沼町等々力村である。

十一、勝峯晋風氏…

『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒の研究』

十二、萩原井泉水氏…『芭蕉風景』

 芭蕉庵焼失後、彼は一時、二本榎の上行寺(其角の菩提寺)に厄介になり、

間も無く杉風の紹介でその姉の所の逗留する。『芭蕉略伝』による。

そこに六祖五平というものが居て、その家を宿としたと言う説もある。としている。

十三、麻生磯次氏…『芭蕉‐その作品と生涯』

芭蕉は堀江町の其角の家に身を寄せたり、その菩提寺である二本榎上行寺に厄介になった。

(中略)芭蕉は谷村の麋塒の次男五兵衛の所に宿し杉風の姉にも世話になった。

十四、井本農一氏…『芭蕉評伝』 

 谷村秋元国家老の高山麋塒を頼ったことと思われる。

十五、安部正美氏…『芭蕉伝記考説』

 谷村流寓説は何の根拠も無く、六祖五平は全くの架空もの。

十六、杉浦正一郎氏…『芭蕉研究』

 六祖五平は高山麋塒の次男と思われる。麻生氏と同説。

十七、菊山当年男氏…〔芭蕉研究家〕

 庵類焼後、直ちに甲斐に逃れた芭蕉は、

『虚栗』の跋文を書いているから甲斐からは五月頃江戸へ帰ったらしい。

 

前述、 赤掘文吉氏『都留高校研究紀要』の論述のまとめとして、

「芭蕉は麋塒を頼って谷村に来た。その根拠…『真澄の鏡』所集、麋塒の子息が書いた〔芭蕉真蹟軸箱の裏書〕他による、とされ六祖五平を頼ったとされる『随斎諧話』・『奥細道管菰抄』の説は高山家の五平衛や高山伝右衛門繁文の次男五平衛が麋塒と混同され芭蕉歿後八十年或いは百二十五年の後に六祖五平として登場したと思われる」。赤堀氏は諸説や谷村・秋元家の研究を通して右記のように結論を出されて居る。そして学会には認められなかった説として次の郷土史家(不詳)の研究文を揚げられている。

「先年郷土史家の手により、都留市谷村の桂林寺で五平家の系譜を記した過去帳が発見され、小林友右衛門という人が〔六祖五平〕であることを確認し桂林寺の保存されていた古文書を調べていくうちに、麋塒から友右衛門に宛て芭蕉の世話を依頼した手紙の切れ端が発見され、それに五平衛の文字が出ていて、小林家が初狩の旧家であり、五平衛桑と呼ばれる桑の木までも現存しているところから、五平衛の家が初狩に現存したと報道があったが学会からは認められなかった。」

 

不思議の話ではある。文学や歴史の研究者はこうした民間の研究者の自説と離れた説は無視する事は常である。自説や自己の見識以外については無視する事で自説を守ろうとする習性があるようで、地域で踏査して研究して居る人達への暖かい配慮に欠けておられる。この説をどうして最もっと真正面から採り上げなかったのか、何の根拠もない推論より遙かに真実に誓い説を見逃して居てはいつまで経っても真実は解からない。

又『研究紀要』では最近(昭和四十三年頃)の話として

「南都留郡中野村山中字〔堂の前〕のH家の祖先に五平衛という人が居り、旧家であり豪農であって、芭蕉が来て泊まったという事

が山中湖付近の口伝として今もなお伝わっていて、菩提寺である寿徳寺の過去帳に倣して見ても誤りなかろうと言う新説が出たがこ 

れも断定するには未だ早急である」

としてこの説も日の目を見ないで終わってしまっている。誠に寂しい限りである。

 

さて芭蕉の甲斐流寓の話に戻るが、小林貞夫氏・赤堀文吉氏の研究は他の文学者のそれよりも遙かに読む人の心に訴える熱い物がある。それは踏査と人生の有る部分を賭けた労作であるからで、こうした先生方でさえも事実が掴みきれない出来事が時間の経過と共に確定論となって行く。それも歴史なのだろうか。

著名な先生方も思い違いや読み誤りもあると思われる。事実を示す新・真資料が出て自説と違っていたらそれを訂正する勇気と寛容な姿勢が必要であり、又、地道な地域歴史研究者の声を聞き受け入れる度量こそが大切であろう。 結局のところ芭蕉の甲斐谷村流寓年時月日を確定する示す資料は確たるものはないのである。

さらに、

十八、本山桂河氏…

一時甲斐の国に退遁し仏頂和尚の弟子六祖五平方や初雁村の万福寺に仮寓して越年した。云々

十九、吉本燦浪氏…

芭蕉は甲州に赴きて杉風の姉、又は仏頂の弟子六祖五平などを頼りていたりしが。

二十、沼沢竜雄氏…

天和二年の暮、江戸の大火にて芭蕉庵焼失の時、杉風の勧めにて、

正月から五月頃まで、初雁村の杉風の家に滞在、

その間に東山梨郡等々力村万福寺にも仮寓、云々

 

二、芭蕉の再来甲 貞享二年

 

芭蕉と甲斐郡内のかかわりはもう一件ある。『芭蕉年譜大成』によると、

 

貞享二年四月中旬頃    甲斐の山中を訪れる

甲斐の山中に立ち寄りて   

行く駒の麦に慰む宿り哉

甲斐山中             

山賎のおとがひ閑づる葎かな

 

貞享二年四月末甲州街道経由で江戸に帰省。(木曾路経由の予定を東海道に変更)

 

とあり、この「山中」についても「さんちゅう」か、地名「やまなか」と読むかが論争点になっている。

四月九日には鳴海の知足亭を訪れ一宿、四月十日には知足亭を出発、帰路は東海道を下った可能性が大である。と今栄蔵氏は推察されている。がこれさえも定かではない。諸説があり又、芭蕉の身辺についても記述された部分(甲斐の)が少なく推論でしか語れない事になる。「推説」は「定説」にはならない。

今氏によると東海道から甲斐山中に立ち寄ったことになり、天和三年(1683)に続いて貞享二年(1685)の甲斐入りは年代も近く、全く無関係ではあるまい。天和二年の甲斐流寓が確実なものであれば貞享二年の芭蕉の行動も先年の謝礼のために甲斐山中に立ち寄る事情があった事は人間としてごく自然であり、その関連を追求すれ天和三年の甲斐逗留も明確になる可能性が有り、研究の余地が残されている。絶対的な資料が無い限りは今後も定説はないままに諸書に著述されて行く事になる。是非小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』赤堀文吉氏の『研究紀要』所集の「天和三年の芭蕉と甲州」の御一読をお薦めする。

天和二年の『武蔵曲』・『錦どる』には芭蕉・麋塒・素堂翁も参加している。芭蕉と麋塒もだが麋塒と素堂翁も前述の谷村城主秋元但馬守と素堂の関係も官職を通じ深い繋がりがあったと思われる。素堂は晩晩年、川越を訪れている。この天和二年当時は芭蕉・三十九歳。麋塒三十四歳。素堂四十一歳である。もっとも芭蕉の生まれたとされる正保元年(1644)は寛永二十年十二月十六日に改元があり十二月十六日~三十一日までの十六日間が正保元年となり、芭蕉はこの間に生まれた事になるとの見解を示す研究者もおられる。

 

山梨県『夏草道中』では貞享二年の芭蕉の甲斐入を次のように明言している。

芭蕉の第二回の入峡は、貞享二年初夏四月ことである。貞享元年八月から二年四月までの「野晒紀行」の途次で、

二年の春「思ふ立つ木曾や四月の桜狩」と熱田で吟じて、木曾路に入り塩尻、諏訪を経て、甲州道中信州路を東に下った。

初狩村の杉風の姉の許に立ち寄って、一昨天和三年暫く世話になった礼をも述べたことであろう。

 

追而申入候。此中にふじに長々逗流、其上何角世話に成候へば、別而御内方御世話に候。

いそがしき中に、うかうかいたし居候而きのどくに候。

長雨にふりこめられ候事、とかうに及びがたく候。

行駒の麦になぐさむやどりかな

いずれへもよろしく御まうし可被給候。くはしきは重而々以上

 

十三日                  桃青

空水様

 

そして(書簡の日付は)帰庵後の五月十三日と思われる甲斐の俳人、空水宛ての此の書翰でも明らかのように、

空水(『夏草道中』筆者注-不明)のところで、雨に降りこめられなどしたが、

今度は、甲州道中二十五次を踏破して、四月末に深川の芭蕉庵に帰った。

とあるが、その論拠は何を基にしているであろうか。

 

芭蕉は熱田からの帰路に木曾路から甲州街道に入り、郡内に至る道筋を踏破した事は文献資料には見えず、諸説混迷しているのが現状である。

『芭蕉傳記考説』「行實編」(阿倍正美氏著)によると、芭蕉は四月九日熱田を出立して、鳴海へ、十日江戸へ下る(『知足齋々日記』)。その後の芭蕉の行動は不明である。木曾路なのか、東海道を通ったかは資料不足で決定していない。それに関する書簡などがあっても、『野晒紀行』には甲斐の途中吟などは見えず、

 

甲斐の国山中に立寄て

行駒の麦に慰むやどりかな

 

の記載となる。阿倍正美氏『芭蕉傳記考説』によると、この「山中」のは

かひの国山家に立ちよる……………真蹟長巻

甲斐の国山家にたちよりて…………泊舶集

甲斐の山中に立ちよりて……………真蹟絵巻本

甲斐の国山中に立寄て………………濁子絵巻本

とありその読み方も「やまなか」か「さんちゅう」か、意見が別れる所ではあるが、芭蕉が鳴海から東海道経て、御殿場から須走を通り籠坂峠、山中、谷村(流寓か)甲州街道を通過して江戸に戻ったか、木曾路をへて諏訪から甲州街道を経て郡内谷村に入ったのか、資料文献からは決定することはできない。

しかし先述の『夏草道中』には芭蕉は甲州街道を利用し江戸へ戻ったと明記してある。こうした確説のような話は、後に比較資料を持たずにその書を読む人には真実として伝わる事となるのである。

 

『芭蕉年譜大成』(今栄蔵氏著)には、

 

四月中旬頃、甲斐の山中を訪れる(経路未詳)

甲斐の山中に立ち寄りて

行駒の麦慰む宿哉 (紀行)

甲斐山中

山賤のおとかひ閉づる葎かな  (『續虚栗集』)

《註…葎やえむぐらなど、繁茂してやぶをつくるつる草の総称》

 

四月末、甲州街道経由で江戸に帰着。

卯月の末庵に帰りて、旅の疲れをはらすほどに

夏衣いまだ虱を取りつくさず   (紀行)

 

資料を繕いながら推説を広げることは小説ではよくあるが、史実を伝える事蹟文献については、一考を要するのではないか。

 

萩原蘿月氏著の『芭蕉の全貌』には次の記載がある。

『芭蕉翁略傳』には

自書云、甲斐の国郡内と云所に至る途中の苦吟

夏ほくほく我を繪に見る夏野哉

此句ばかりかと存候

柏水丈       はせを

 

又、松瑟の「水の友」(享保九年刊)には畫讃と題してこの句が出ている。

『句選年考』には芭蕉の、

瓜の花雫いかなるわすれ草

を掲げて、その註に、

 

天和末、貞享の初の吟なるや。類柑子に其角が瓜の花の一花の文あり。

其文に曰、河野松波老人(宗対馬守公の茶道)一物三用の器をもてあそべり、

長嘯子のめで給へる記あり、

ほとゝぎすまた聞はえする此、かの鉢たゝき所望して見んと、芭蕉翁高山何がし言水等是かれ訪ひ侍りけるに云々。

 

とあり、この句は貞享元年か二年の句としている。

さらに芭蕉の

木曾の情雪や生えぬく春の草

の句註には

『芭蕉傳』を見るに、深川六間掘と云ふ所に庵を設けて、天和二年迄在住ありしに、其冬回禄の災にあひて、

暫く甲州に赴き、彼国に年を越え、翌三年の夏末ならんか、深川の舊地へ帰ぬ。

もしや此甲斐遊杖天和三年の春の吟なるや。

『枯尾花』序には、天和三年深川庵焼亡、翌年(四年)夏甲斐が根、帰府、庵再建芭蕉野分けしての吟有りと記せり。

是を見る時は夏秋のみにして、春甲斐遊杖あらざる故春の句有る可きにあらず。

又『枯尾花』の天和三年焼亡翌年とあるは天和四年即ち貞享改元の年なり。

此元年の秋は古郷伊賀へ旅立ち「野ざらし紀行」あり。

是を見彼れを察するに、秋庵再建直ちに旅立もいぶかし。

もしや『枯尾花』に、天和二年を三年と印板を書損にや。

 

この様に芭蕉句の解説文には様々な文言が飛び交い、読む人はどの説が正しいのか悩むばかりである。

 

『續虚栗集』には甲斐を詠んだ歌が記載されている。そして山中も

甲斐山中にさまよひける夜、宿かりぬべきかたもなくて

 

刀さげてあやしき霜の地蔵哉          破笠

雪消を出る甲斐の馬工郎              其角

秋山

甲斐がねも見直す秋の夕哉        露沾

秋山や駒もゆるがぬ鞍の上            其角

『續虚栗集』「春の部」改正には

年の富士はつぼめるすがたかな        麋塒

《連衆…釋任口・芭蕉・自悦・杉風・・去来・千春・其角・以下略》

 

安部正美氏著の『芭蕉伝記考説』「行実編」は芭蕉の生涯を克明に浮かび出しているが、このあたりの行実解明は捗々しくない。

 

元禄三年四月二十四日附、北枝宛。芭蕉書簡の、

「池魚の災承、我も甲斐の山ざとにひきうつり、さまぐ苦労いたし候へば、御難儀の程察申。」

や其角の『芭蕉終焉記』には、

「爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を発して。其次の夏の半に、

甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、

それより三更月入無我 といひけん昔の跡に立帰りおはしければ、……」

 

とあり、芭蕉が甲斐に行ったのは夏の半とあるから五月のことである。芭蕉の甲斐逗留の時に秋元藩国家老高山傳右衛門(麋塒)がどう関与したかは後説であり、史実とするには資料が足りないことだけは間違いない。

また当期間に芭蕉の詠んだとされる句や、地域に残る芭蕉句を無理に谷村逗留中の句とすることもどうかと思われる。芭蕉の甲斐谷村逗留を史実としたい研究者の意図が見え隠れして気になる。

 

素堂と芭蕉

 

私の研究する山口素堂と芭蕉の関係は蜜月時代に入っている。延宝三年に「西山宗因歓迎百韻」に同席し、延宝四年には信章(素堂)との「天満宮奉納二百韻」、延宝四年には出入りする内藤風虎主催の「六百番俳諧発句合」、冬には京都の伊藤信徳・信章との「三吟百韻」を興行、延宝六年春には「三吟百韻二巻」を興行している。さらに『江戸広小路』。『江戸新道』にも両者が入集、延宝七年か八年には「両吟発句脇二組」や夷宅を交えての「三吟三物一組」成る。天和元年には木因との素堂亭訪問の打ち合わせをし、七月には素堂・木因・芭蕉との三物、天和二年春には京都の望月千春が東下、十二吟百韻に同席、同じ頃の「七吟世吉」にも同席している。二年八月十四日には高山麋塒の主催の「月見」に京都の信徳、素堂と共に臨み、素堂は「月見の記」を書く。そして大火災に遭遇する。素堂は天和三年九月には前述の「芭蕉庵再建勧進簿」と続く。風律の書には素堂は秋元但馬守に蚊足を世話している。素堂抜きには芭蕉の甲斐逗留は語れない。

甲斐出身とされる山口素堂でさえ生まれた年は、一月四日(『連俳睦百韻』)、五月五日(『甲斐国志』)説があり定かではない。当時の著名人の生まれた年は没年より逆算して決めることが多く、生年が明確な人以外は殆どが逆算したものである。

名前にしても『甲斐国志』は幼名重五郎、長じて市右衛門とあり『連俳睦百韻』では太郎兵衛、「とくとくの句合」では松兵衛の名も見える。この様に確定する資料のないまま素堂家は何時の間にか、巨摩郡字山口に生まれ幼少の頃府中(甲府)に移住し忽ち富豪になり人々に「山口殿」と称され、二十歳の時江戸に出て云々となってしまい、今では真実の如くに各書に引用され辞書類も殆どがこの説を引用し記載している。

こうした仮説でも著名な人が書き、引用が度重なると、多くの庶民は洗脳されて真実の歴史と思ってしまうものである。

秋元家、芭蕉、麋塒、杉風、素堂などは俳諧では語れない絆で結ばれていて、それが何であるか究明しないと真実に近づけないのではないかと思われる。

 

尚、森島弥十郎基進の『甲斐国志草稿』には素堂の和歌が掲載されて居る。(『甲斐国志』には記載なし)    P69 俳諧師素堂 此人手沢ニ希也故 此ニ出 歳暮 素堂

「春の日も夜も長月もあすか川 ながれて年のけふもくれぬる」






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月25日 11時44分52秒
コメント(0) | コメントを書く
[松尾芭蕉資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X