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2019年04月19日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

河中島五箇度合戦記 第一回合戦  
                 

 信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、それから四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤である。高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部頭頼季三代の孫に当たる高梨七肺盛光の子孫である。井上河内守清政も高梨の一族。須田相模守親政も一家。島津左京進親久は、頼朝の子島津忠久の子孫に当たって、いずれも信州の名家である。これらの人々が甲州武田信玄に負けてみな越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来たのでぁる。中でも村上義清は、多年武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文二十二年五には月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に帰ることができるのを心から望んでいた。

 

 謙信はこの年間二月初めて京都に上った。二十四歳の時である。これは、前の年の天文二十一年五月に、勅使、将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼のため京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、いろいろねんごろなお言葉を受けて、五月に帰国したところ、六月村上義清が落ちのび、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、その助力を願った。それで同年十月十二日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。

途中、武田についている者どもの領分には火をかけて焼き払い、自分の館にひっこんで手向かいをしない者の領分はそのままかまわずに通り、十一月一日に川中島に陣を取った。

晴信(信玄)も二万の兵をひきいて出陣した。同十九日から二軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いとなった。二十七日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。先手は長尾平八郎、安田掃部、(かもん)それに長尾包四郎、元井日向守((ひゆうがのかみ)清光、同修理進(しゆりのしん)弘景、青河十郎を左右に備えた。左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉(さえもんのじよう)盛頼。二番手は小田切治部(じぷしようゆう)少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、二十八日の夜明けごろから一戦を始めた。武田方も十四段の構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、

帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。それで十二月三日、京都公方に戦の経過を注進する。大館伊予守が披露する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。

そのころ、謙信は長尾弾正少弼( だんじようしようひつ)と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文二十三年(一五五四)春のことであった。






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最終更新日  2021年04月25日 09時14分21秒
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