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2019年04月19日
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カテゴリ:武田信玄資料室

河中島五箇度合戦記 第三回合戦

 

 弘治二年丙辰(一五五六) 

三月、謙信川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。

 信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、

信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。

 

 謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。

 

 信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。

 武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い散らし、逃げるのを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。

 

 越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。

 謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。

上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。

 

 武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。

 信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。

 

そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。

 甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。

 この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。

弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。

 

第三回川中島合戦

 晴信感状(天文二十四年(一五五五)七月十九日(「甲府市史」)

 

 晴信、遠光寺の土橋氏に感状を与える

    今十九、於信刀朋更科郡川中嶋遂一戦之時、頚壱討掩之条神

    妙之至感入侯、弥可抽忠信者也、仍如件

   天文廿四年乙郊、

  七月十九日晴信(「晴信」朱印)

      土橋対馬守との(「甲州古文書」)

 

 

晴信、川中島への出陣を報ずる

弘治三年(一五五七)

 

    十一日之注進状今十四目戊刻着府、如披見老越国衆出張之由

    侯哉、自元存知之前候条不図出馬候、委曲於陣前可遂直談候

    趣具承候、飯富兵部少輔所可申趣候、恐々謹言

 

     (弘治三年)三月十四目    晴信(花押)

        木島出雲守殿原左京亮殿(「丸山史料」)

 

〔解説〕(「甲府市史」)

 第三回川中島合戦

 葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪のために出陣することができず、晴信も三月十四日にはまだ甲府にいた。

 そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出障するとの鞍に接し、自らも出馬すると伝えている。

 四月十八日、景虎が川申島に出陣し、晴信は決戦をさげて安曇郡小谷城を攻め、

 八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。






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最終更新日  2021年04月25日 09時12分58秒
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