カテゴリ:武田信玄資料室
「安西伊賀守宛信玄書状」
<筆註> 永禄九年(?)三月十三日付
「安西伊賀守宛信玄書状」
上杉氏の在陣状況について倉賀野城より連絡をうける手はずとなっていること、北条氏の上野侵攻にあわせて信玄も武蔵まで出陣するつもりであること、北条氏の指図では十六日に甲府を出陣し、二十二日に倉賀野城に着陣する予定となっているが、後詰の一戦を逃す可能性があるため、既に十日に出陣し、昨日十二日に信濃岩村田に着陣したこと、上杉氏が既に退散したとの連絡をうけたが、信玄が後詰に間にあわなかったことについて信玄に落ち度はないこと、などのことがみえている。
同文書の年次については、これまでは永禄八年に比定されてきたが、同年、信玄は二月中に西上野に在陣していることから、いまだ西上野に着陣していない同文書は同年のものではありえない。 この時の西上野への出陣が北条氏からの要請によるものであることをみると、北条方の下総国衆が上杉氏から大規模な攻撃をうけているなか、信玄が北条氏から強く援軍としての出陣を求められている。(「諸州古文書」) 永禄九年に相当する可能性が高いとみられる。 おそらく、信玄は三月中には西上野に出陣したものとみられ、四月三日には、白井長尾氏の本拠白井城を攻撃したことが知られる(「互尊文庫所蔵文書」)、その後の動向については不明といわざるをえない。 続いて同九年については、 閨八月十九日までに信玄が西上野に出陣したことが知られる(「武家事紀」)。 そこでは大戸在城衆に対し、岩櫃城から上杉氏の先陣が沼田に着陣したという注進をうけたことから、両城への増援として信濃先方衆祢津氏・望月氏を派遣したことを伝えている。 九月二十九日には、西上野最大の拠点である箕輪城を攻略し、あわせて西上野最大の国衆であった城主長野氏の没落を成功させるに至っている(「長年寺文書」)。 ここに武田氏は、永禄五年以来その攻路をすすめていた箕輪城の攻略をついに遂げたのであり、これにより、武田氏は西上野の大部分の経略に成功したといえる。また、この直前頃に東上野最大の国衆である新田由良氏が、武蔵成田氏や下野国衆らとともに北条氏への従属を遂げており、さらに同年末までには、厩橋北条氏・館林長尾氏・小泉富岡氏といった、それに隣接する国衆らが相次いで北条氏に従属するに至っている。 そしてこれによって、依然として上杉氏に従属している上野国衆は、白井長尾氏・惣社長尾氏を残すのみという状況となって)いる。
そして永禄十年に入ると、信玄は、 三月六日以前に岩櫃城在城の信濃先方衆真田幸綱が独自の計策によって、白井城を攻略している(「諸州古文書四上」)。 これをうけて信玄は、真田氏らに対し、臼井城の仕置については三日中に指示すること、その間、真田氏らは箕輪城に在番して、箕輸城に在城していたとみられる譜代家老衆春日虎綱とすべて相談すること。上杉氏の帰国が明らかとなったならばその翌日に自身西上野に出陣すること、などを伝えている。 この白井城攻略をうけて、信玄はそれからしばらくのうちに西上野に出陣したものと想定され、さらに五月五日以前のおそらく四月中までには惣杜城の攻略をも遂げ、あわせて惣社長尾氏を没落させるに至っている(「上州瀬下氏由緒書」)。 こうして武田氏は、白井長尾氏と惣社長尾氏のそれぞれの本拠である白井城・惣社城の攻略を遂げ、両氏を事実上没落させるに至ったのである。 そしてこれによって、武田氏は西上野のほぼ全域の経略に成功することとなったのである。 武田氏は、白井城攻略後の三月末から五月上旬にかけて、在地の中小領主層に対して集中的に新恩知行の充行をおこなっている。(「漆原文書」) これはいうまでもなく新たな支配領域の獲得をうけて、主として閾所地の再配分を通じての支配の再編成の展開を意味するものである。それらにみえる知行地が、ほぼ箕輪領・白井領・惣杜領に属していたものであったことからすれば、これらは、前年における箕輪城攻略以降における経略領域を直接的な対象としたものであったととらえられる。 そうした際に注意すべきは、高山氏宛のものに西上野南西部の多胡郡・緑野郡域の在所がみえていることである(「高山系図」)。 武田氏は、これによって名実共に西上野のほぼ全域の領国化を達成したといえ、その意味でも、白井城・惣杜城の攻略、多胡・緑野両郡の獲得を果たし、それらを含めての一斉的な知行割が展開された。 永禄十年四月.五月という時期は、武田氏による西上野支配の確立を示すものとして位置付けられるであろう。
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最終更新日
2021年04月25日 09時01分51秒
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