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2019年04月19日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

勝頼父子生害附勝頼御首瞑せず、信長対面無礼の事(「武田三代軍記」)

 

◆勝頼、田野の奥天目山にまします由、信忠の本陣へ告げ来る。

◇信忠則ち、甲州先方の関甚五兵衛・辻弥兵衛を、案内者とせられ、河尻肥前守・滝川左近将監・毛利河内守・水野監物・.同惣兵衛・津田孫十郎・稲葉彦六郎・丹羽勘介・織田源吾・同赤千代丸・塚本小大膳・簗田彦次郎.梶原平二以下三万余人、田野郷へぞ向けられける。

◆勝頼、此由を聞召し、能き要害に拠って、大軍を待請け、一度に突出で、勝頼が最期の合戦、目を驚かせりと、後代に伝へん。此辺に、小勢にて楯籠るべき要害の地は無きかと、仰せらるに、温井常陸守が申しけるは、常に馬場美濃守、存生の時申したる事を、風かに承り侯は、此奥山天目山こそ、能き地利にて候へ。麓に流あって、一騎打の処なれば、大軍却つて邪魔になる所と、承り及ぶと申すに、勝頼仰せけるは、新府中にて、兎も角もならんと思惟せしに、小山田に計られ、斯かる難儀に及ぶ。今必死の身となり、勝頼こそ、織田が大軍に怖れて、奥山に逃げ入りたりといはれんは、勝頼が名折なりと、仰せられけるを、色次に勧め参らせ、天目山に御座を移さる。

◆御前の御供仕りし女房廿三人に、御暇を下され、新館御娘人は、石黒八兵衛・御胴朋何阿弥を差添へられ、御先に立てられてぞ急ぎ給ふ。此時、勝頼四十三人の内、出家衆二人、是非に立退かれ侯へと、仰せられけれども、落ち給はず。

◆勝頼、太郎信勝に向ひ仰せけるは、御辺は旗・無楯を携へて、何国迄も遁れ給ふべし。山続に武蔵の国へ出で候は父、出羽奥州迄も落ちらるべし。上杉景勝も旗下といひ、勝頼が厚恩を請けし者にて、伯母婿なれば、渠を頼むといふとも、安かるべしと仰せられけるに、

◆信勝宣ふは、勝頼公は、北条氏政の御妹婿にて侯へば、是より小田原へ御入あらんに、日頃不和にましますとて、争でか疎意を存ぜられん。疾く疾く御忍び候べしと、仰せければ、

◆勝頼の仰には、村上義清、信玄に国を追出され、越後にありて、終に運を開かず。上杉憲政も、謙信を頼んで朽果てたり。駿州の今川氏真、小田原を頼んで、未だ蟄居す。皆、是れ先車の戒なり。運命既に究つて、敵に押詰めらるゝ程にては、伐死をこそせめと、常に我れ近臣にも語りし。今更、我れ何ぞ碁言を盗まん。死を軽んずるも節あり。此時、既に勝頼が死すべき図にあたれり。唯今に至つて、附随ふ者共は、皆勝頼が命に、替らんと思ふ輩なれば、汝等を前後に立て、涼しく伐死をせんには如かじと、少しも憂ひ給へる気色なく、郭然としておはしませば、

◆信勝仰せけるは、御供の者共に、各御盃を下され、然るべしと宣ふ。屋形聞召し、信勝こそ、法性院殿の御家督なれば、盃を給はり然るべしとあり。

◆互に御辞譲ある時に、秋山十三郎、御盃を持ち出し、屋形の御前に差置く。勝頼、取り上げられて、信勝に差し給ふ。時に信勝、謹んで頂戴あり、又屋形へ進上ある。其後勝頼公、何れにも御盃を下さる。

◆其人次には、阿部加賀守貞村・土屋惣蔵昌恒・秋山源蔵親久・金丸介六郎(惣造舎弟)・秋山紀伊守・同子息十三郎(十五歳)小原丹後守・子息忠五部・秋山民部少輔・子息弥十郎・温井常陸介・小宮山内膳・小原下総守・同惣十郎・小山田弥助・多田新蔵.同角介・岩下右近・同左膳・寺島藤蔵・甘利采女・友野刑部少輔・同又市・甘利彦五郎漱微・曽根内膳・小山田大学・安西平左衛門・雨宮織部・同善次郎・小瓦五郎介・同十兵衛.安田十左衛門.同弟源三郎.川村五丘ハ衛・浅波右近・榎竝新蔵・山下杢助・皆井小介・岩井源蔵・斎藤作蔵・外に大竜寺の麟岳和尚、是は長禅寺春国の弟子、信玄公の御甥なり。今一人は、秋山民部少輔が弟、円首座麟岳の弟子なり。斯く次第を以て、御盃を下されける。後に小山田平左衛門、参りけれども、御盃納まれば、此一人は頂戴せざりき。此外、士卒二人、勝頼公御父子を合せて、都合四十七人なり。

◆兎角する内に、夜明けしかば、河尻肥前守が釣笠の馬印、逢に見ゆると申すにより、阿部加賀守申しけるは、某儀、御先を仕り、河尻が先陣を追散らし候はん。其間に、君は御最期の御用意を遂げらるべしと、申して、秋山民部少輔・同弥十郎・小山田平左衛門・同弥介・斎藤作蔵以上六騎、各々得道具をとって、勝頼公御父子に、最期の御暇を給はり、天目山の麓に下りさがり、川を前に当てて待伏せたり。左右難所にて、敵の手練れ軍勢一騎打に連り、川を越え来る所を、小山田平左衝門・同弥介両人は、聞える鉄炮の手垂にて、横田十郎丘ハ衝が秘術を伝へし者共なれば、道の左右に立別れ、玉薬を込替へて、差取り引詰め放しけるにより、究竟の歩卒三十余人、枕を並べて打倒す。

◇滝川が先手津田小平治・篠岡平右衛門、真先に進んで、敵は小勢なるぞ。進めや者共と制してかかるを、小山田が放す鉄炮にて、津田小平次、唯中を打貫かれ、逆様に落ちければ、隊下の軍勢、進み兼ねて色めく所を、阿部加賀守・秋山民部少輔両人、強弓の矢次早なれば、敵を弓手に引受け、矢坪を違へず射立てけるに、立処に又、廿七騎射落したり。其後、六騎の面次、太刀を抜き、競い来る敵、数千人の中へ割って入り、十文字に馳通り、巴の字に廻って戦ひければ、河尻が先手千六百人、四度路になりて猶、予ふ所を猶も進んで敵兵五六十人薙伏せ、蝦と引きて見たりければ、阿部加賀守・秋山民部少輔は、早や討たれたり。斯かりければ、敵兵、直に進んで攻め登る。

◆勝頼公は、黒糸の胴丸を着し給い、態(わざ)と鍪(かぶと)をば召し給はず、白練の御鉢巻にて、重代の吉弘の御太刀を帯し給ひ、真先をかけられければ、左は土星惣蔵、塗籠藤の弓にて、百矢を逃さず射落したり、右は太郎信勝、卯の花絨の御鎧を召され、左文字の御太刀を帯かせられ、十文字の鎗にて、主従四十余人、真丸に成り、河尻が千六百人を百余人討取り、二度敵を追崩しけるに、土屋、奇妙の手利なれば、十八人迄射倒し六七騎に手をぞ負はせける。勝頼公は、元来打物の達者にてましませば、近づく者を幸に、薙捨て給うにより、既に両度の迫合に、十三騎迄切伏せられける。

◆信勝君も、七騎迄突留め給うに、御鎗、既に折れたりければ、是も同じく御太刀打なり。其外の勇士四十余人、各々五騎・六騎の敵を、討留めざるは無かりけり。

◇其時、滝川左近将監が、胴勢二千余人にて懸り来る。

◆此時も勝頼公、四方より懸る敵を、十一人迄薙ぎ伏せられけるに、土屋も矢尽きて打物になり、勝頼公に近づく敵を、左右に切伏せ働きけるに、小宮山内膳・温井常陸、御後に於いて敵を組留め刺通す。麟岳和尚も、薙刀にて九人迄、伐捨て給へば、此時また敵兵を討つ事四十三人、味方四人討死す。

◆勝頼公、縦横に御働あり。各々前後左右を助けて引くも駈くるも一致なれば、敵兵、足を立兼ねて、右往左往に乱れ散るを、又両度迄追崩し、高き所に引上げ、各々息を続き給うに、又河尻が荒手一千人、押寄せけるを、物々しといふ憧に、面も振らず駈入り、八十余人討取り、残兵を追散らし給うに、此時、味方二十余人討たれけり。されども、勝頼公御父子は、未だ薄手をも負い給はず、猶も勇威を振いましくける。都合五度の駈合に、四度敵霊崩し、敵兵三百十余人切捨て、四百余人に手を負はせける。

◆斯かりける所に、辻弥兵衛逆心して、今日の案内をしたりけるが、五千余人を従へ、後の山より押下し、鉄飽をつるべ懸くる事、雨の如くなれば、此時、小原丹後守・弟下総守・金丸曲六郎、簾申御息女を始め奉り、介錯をして各々腹を切る。

◇斯かる所に、敵兵ハ数十人、一同に進み、土屋惣蔵に鎗付くる。

◆屋形、土屋を不便に思食し、真先に進んだる敵を、六人迄、切伏せられけるに、敵呉四方より進み、重ねて傍頼御父子を鎗付くる。

◆此時、又敵兵ハ、数を尽して討だれ、味方も悉く討死して、御父子の御首をも給はりけり。今日の卯の刻より、巳の下刻に至って、戦既に落ましたりけるに、味方四十七人を以て、五千人の敵を、四度突崩し、討捨つる敵、都合三百八十余人、手負五百人に及びけり。

◆此時に至って、武田二十代の名家、忽ちに減亡し、甲州田野の郷天目山に於いて、生害ありければ、河尻肥前守.滝川左近将監等、直に進んで、夫々に首を点検し、勝頼公の御首を尋ねけるに、御鍪をも召し給はず、御鉢巻ばかりにて、殊に御働尋常ならねば、敵兵、夫とは思もよらず、小原丹後守が女房衆を介錯し、毛氈(せん)を敷いて、見事に腹を切りたるを、勝頼公なりとて、首を公卿に据えたりけるに、関甚五丘ハ衛.辻弥丘衛来て、勝頼公御父子の御首を見分け、丹後守が首を捨て、屈形の御印を公卿に据える。

◆時に勝頼公三十七歳、信勝公十六歳なり。

◇御父子の御印を始め、都合首数四十七級を切り、河尻・滝川、大に勇んで、信忠の本陣甲府をさして引退く。然るに勝頼の御首、生けるが如くにましまして、左の御目を塞がれず、信忠、此由を聞き召し、其威儀厳重にして、御父子の御首に対面ある。

◇其後信忠、関加平次・桑原助六郎両使を以て、勝頼御父子の御首、竝に其外の首共、残らず信長の本陣に送られける。信長、其日濃州岩村を立って、信州彌羽根に着陣の所に、右の両使、参着せしめしかば、信長、恰悦浅からず、則ち首に対面あらんと仰せける。関加平次申しけるは、勝頼の御首、未だ左の片眼を瞑れずと申せば、信長仰せけるは、信忠は、勝頼が首見たるやと宣ふ。

◇両人承り、信忠卿は甲府に於て、御対面と申す。其時信長、夫次勝頼父子が首、持来れと仰す。森蘭丸、御鎧を召さるべしと諌めけるに、信長、鎧を着し給はず、床机により給はず、左右に候ずる勇士も無。

◇唯平座し給ひながら、勝頼の御首に向ひ、太刀に手を懸け仰せけるは、如何に勝頼、御辺の父信玄は、我等嫡子信忠を、婿に約諾し、天下を望み、縁者を変改し、其外、事々に付けて、信長を方便り、不礼不義のみを尽されし積悪により、都に切って登るとて、俄に病死せり。

◇其余殃、又勝頼に及んで、今信長が為に、諌減せられ給ふ。然れども、信玄在世の望には、首にてなりとも、都へ上り参内を遂げたき由、願はれつると聞けば、勝頼、其志を続いで、父子早く都へ上り参内あり、其後、獄門の木にて、京童に見知られ給へ。

◇信長も、頓て跡より登るべしと仰せければ、其時、勝頼の御首、快然たる御気色にて、片眼を塞がれけるこそ、寡に希代の例なれ。之を見る人、怪みの色をなさずといふ事なく、蕨然として恐怖せずといふ事なし。臆乎是、信長の挙動、主将の礼儀にあらず。人有礼則安、無礼則危と、心ある人は、眉を顰(ひそ)めてぞ候ひける。

 

◇斯くて御父子の御首を、長谷川宗住に持たせて、京師に送り給ひける。

 






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最終更新日  2021年04月25日 08時57分39秒
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