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2019年04月20日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

江戸時代に語られた甲斐武将たち お話

 『日本随筆大系』四十三巻より 信玄関連記載事項抜粋

 

 一、甲州祐成寺の来由   新著聞集(著者不詳)

 ある旅僧、独一の境界にて、複子を肩にかけ、相州箱根山をこしけるに、日景、いまだ午の刻にならんとおぼしまに、俄に日くれ黒暗となり、目指もしらぬ程にて、一足もひかれざりしかば、あやしくおもひながら、是非なくて、とある木陰の石上に坐し、心こらして佛名を唱ながら、峠の方をみやるに、究竟の壯夫、太刀をはき手づからの馬のくつ草鞋をちり、松明ふり立て、一文字に馳くだる。跡につゞき若き女おくれまじとまかれり。あやしく守り居るに、壯夫のいはく、法師は甲斐国にゆくたまふな。われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。某は曽我祐成にてありし。これなるは妻の虎、信玄は我弟の時宗なり。かれは、若年より此山にあって、佛經をよみ、佛名を唱るの功おぼろげにあらずして、今名将なり。あまたの人に崇敬せられ、又佛道にたよりて、いみじきあり様にておはせし。某は愛着の纏縛にひかされ、今に黄泉にたゞよひ、三途のちまた出やらで、ある時は修羅鬪諍の苦患いふばかりなり。願くば我為に、精舎一宇造営して、菩提の手向たまはれよと、いとけだかく聞えしかば、僧のいはく、安き御事に侍ひしかど、證據なくては、承引いかゞあらんとありければ、是尤の事也とて、目貫片しをはづし、これを持参したまへと、いひもあへぬに、晴天に白日かゝり、人馬きへうせてけり。僧思ひきはめて、甲陽に越て、それぞれの便をえて、信玄へかくと申入れしかば、件の目貫見たまふて、不審き事かなとて、秘蔵の腰物をめされ見たまへば、片方の目貫にて有しかば、是奇特の事とて、僧に褒美たまはり、頓て一宇をいとなみ、祐成寺と號したり。しかしより星霜良古て、破壊におよびしかば、元禄十一年に、共住持、しかじかの縁起いひ連ね、武江へ再興の願たてし事、松平摂津守殿きこしめされ、武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋たまひしかば、その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしと、みせたまふに、金の蟠龍にてありし。

 

 一、高坂弾正と言者高野の書帖有   可成三註(篠崎東海等)

 則按、或云、軍艦は高坂弾正忠昌信記レ之。其臣春日惣三郎附記すと云へども、軍艦より結要本来書、中巻及び下巻、三韜本彼已の巻、寒暑兩本に至るまで、小幡勘兵衛景憲著す所と。一説には、文字に疎くして、清書の時叔姪に禅僧ありて手を借ると。独り軍法巻は高坂霜臺が遺書にして、景憲晩年に下巻を撰す。井上義備曰、備本南越福井の産なり。原氏、真田氏、高坂氏、其餘甲州之士在 於福井 。以 甲軍志 之於東都 。談レ兵者又多。共以 高坂昌信 為レ眞。何以 高野一書牘 天下之士 耶。可レ謂レ誤矣。井上義備子政。號石渓花。惣平。

 

 一、武田晴信(信玄)の和歌  北 瑣談(橘 春暉)

 『集外歌仙』は狩野蓮長に命ぜられ、圖書を添られたるとぞ。   晴信(武田大膳大夫)

   松 間 花

 立並ぶかひこそなけれ山ざくら

                 松に千年の色はならはで

 

 一、 一条忠頼のこと()内清水註   三省録(志賀 忍)

 

 甲斐源氏一条次郎頼忠(忠頼)謀反の企てありと聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年六月十六日殿中に於て誅したまふ。頼忠が侍新平太、同武藤與一並山村小太郎等、事の起る見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なをも寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以これを打つと云々。(『武道兵語抄』)

 

 一、馬場美濃守    三省録(志賀 忍) 

(前文略)甲州の武田信玄の家老の中にて、、別て弓矢の巧者と名を呼ばれし馬場美濃と申たる侍は、戦場常存(在か)申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如件。(『武道初心抄』)

 

  井伊兵部少輔直政かたられしは、  三省録(志賀 忍)

 むかし東照宮、甲州若神子の於て北条氏直と御対陣の時、ある夜大久保七郎右営門忠世かたより、只今若き衆うつよりてうまき料理に候、早々御出あるべしと申こさるゝにより、急ぎゆくむかへば、陣屋の出座に火をたき、自在鎰を下して、平鍋にふつゝかなるをかけて、根芋の葉も茎も、ともに糖味噌にて煮たるなり。座中には鳥井新太郎忠政、石川長門守康道、本多彦次郎康重、岡部彌四郎長盛、大久保新十郎忠隣など、焼火を取り囲み居らるゝ。七郎右衛門座をひらき、萬千代殿これへく

と請ぜらる。其芋汁いまだ煮えざるを、手々に椀を盛、舌うちして食ひけり。直政へも椀に堆盛てあたへたるをとり、少し喰けるに、殊の外あぢはいあしく、、食するに耐え難がたく、下にあきて居ければ、流石萬千代殿は、若き衆にて華美まりとて、みなく数椀あらそひ喰ける。七郎右衛門曰、萬千代どのいか

ゞして食し給はぬやとなり。これに少し醤油を入なばよかるべしと挨拶す。みなく申やう、それは奢なり、左やうなものが、今こゝにあるべきかとなり、又七郎右衛門申すは、いづれもよくこゝろえられよ。この芋汁の味のわるさをみな賞翫せられ候。手前の士卒これをさへ食することならず。わずか三合の米煮るもせぬ黒米を食ひ、寒苦をしのぎ、暑熱をいとはず、白刃に身をくだき、主人のために命をなげうちて、其ものゝ切なるところ、武道義理により、百姓はまたかやうのものを作り出し、辛苦して主君に収納し、士卒をやしなひ、かやうなるものもおのれが口に入ることならず。妻子も飢寒に及べり。さあらば大将たる人は、そのこゝろあるべきことなり。今屋形さま次第に敵国を多くしたがひさせ給はゞ、おのく大名になるべき間、只

今の芋汁の味を忘れず、士卒を撫愛し、百姓を隣愍あるべきなり。もしこのこゝろわすれ給はゞ、武道おこたり、君臣の義もうすかるべし。屋形様つねずね武道わするべからずとおほせらるゝはこゝなり。臂をはり眼をいからすといふにあらず。家業をつとめよといふことなり。家業の第一は士卒を愛するなり。さなければ大事の用に立がたしといひしを、今耳底に残りて感ずるとなり。(『故老諸談』)

 

 一、武藤修理亮    三省録(志賀 忍)

 武藤修理亮は武田信玄につかへて、槍をあらはすこと三十七度、分捕功名数しらず。信玄、勝頼二代の感状を得ること四十二通あり。勝頼戦死の後、小田原にゆき、関東の人に千騎に一騎とほめらるゝはたらき度々あり。小田原北条滅亡の後浪人せしが、福島左衛門大夫まねきむかへて、三千石の所領をあたへたり。関ヶ原一戦のみぎり、度々の功名をあげてかぞへがたし。元和四年正則滅亡の後、また浪人の身となりて、大津浦にまづしくくらし、馬の沓をつくり世わたりとす。折ふし上手にて、馬士ども武藤沓といひて用ひけり。人みなこれをわらふ。ある人いさめて曰、武具馬具を沽却そて世わたりの助とし給へ、武器(?武藤)沓と名をよばはるゝは恥なりといひけれども、かってきゝいれず、はたして加賀利常卿より三千石をたまはりて、武藤沓の恥をすゝぎ、一生槍の場数をいはずして老年を終る。 (『新武者物語』)

 

 一、一条次郎頼忠(忠頼)    三省録(志賀 忍)

 

 甲斐源氏一条次郎頼忠謀反の企あると聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年(1184)六月十六日殿中において誅したまふ。《中略》頼忠が侍新平太、同武藤與一並び山村小太郎等、事の起こると見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なども寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以てこれを打つと云々。

   (『武道兵語抄』)

 

 一、小幡勘兵衛景憲の養子    三省録(志賀 忍)

 小幡勘兵衛景憲が実子なきを以て、何某の次男を養子としける。そのころ若輩の面々は、丹前風とて髪の結やうより大小衣類にいたるまで、異様なる風俗なりし、小幡が養子も若年のことゆゑ、その風をまなびて、鏡二面を用て髪つくろひけるを、父景憲とがめて申は、若輩なれども武士の家に生るゝ身として、二面の鏡もてかたちつくろうふこと、遊女野郎の所為なりと立腹し義絶せられけり。この人武功におゐては人のゆるせし事なり。乱舞も巧者にて、その外細工もよくせられたり。

  (『明良洪範後編』)

 

 一、馬場美濃守信房   柳庵随筆(栗原信充)

 『治乱記』馬場美濃守氏勝とあり。甲州侍大将也。『甲陽記』馬場伊豆守虎貞、大永六年武田信虎に殺されその跡絶たりしを、当屋形教成(来)石民部少輔景政に仰付られ、馬場民部氏勝とめされ、信濃国眞木島の城に置せらる。永禄の比は美濃守とめされしが、長篠にて討死也。『甲陽軍艦』馬場美濃守百廿騎。『□□一書』はじめ教来石民部丞氏勝、天文十五年馬場美濃守と改む。(或は尚房と云)『仏祖統記』馬場民部少輔景政(後改美濃守信房)日豪上人、遠州端和妙恩寺祖。『家忠日記』天正三年五月廿一日長篠ノ戦ニ甲兵多ク戦死シ、勝頼自殺セントスルノ處、馬場美濃守、内藤修理亮踏留リ討死ス、塙九郎左衛門ガ従卒、河井三十郎馬場ガ首ヲ得タリ。

 

一、 原美濃守虎胤   柳庵随筆(栗原信充)

 小田原記。原美濃守と云侍、紺糸鎧に半月の二間許両方へ出たる指物にて、甲眞向に原美濃守虎胤と書て猪首に着し、是は下総国千葉の侍なり。父原能登守友胤と云者、小弓御所合戦の頃、総州より牢人して甲州に行、信虎に奉公して度々高名し討死す。其子美濃守信虎烏帽子として虎胤と名付く。治乱記。天文二十三年原美濃守虎胤、黒鞍に月に星金具に摺たる云々。原奮は下総千葉介が一族にて彼旗下也。先年生實御所義明鵠臺にて討れし後、父能登守は臼井城より甲州に浪々し甲州に来り信虎に仕、終討死す。美濃守若年の時より大剛の誉あり。信虎烏帽子にし諱字を授しが、近年聊事ありて武田家を立退。

  「千葉系図」原氏流也

 千葉介頼胤 大隅守宗胤  大隅守貞胤  胤高  胤親 原越後守胤房 能登守友胤  美濃守虎胤

 

 一、川中島   薫風雑話(渋川時英)

 昔川中島の役に、謙信の一騎にて引るゝ處を、甲州方の士凡十八人にて取囲み討んとせしが、謙信に斬払はれて寄付こともならざりしといへり。謙信ならば左もあるべき事ににて、扨今日霜辛雪苦を犯して、心を苦しめ骨を折るかはりには、誰々もその場を自得しかき者なり。

 

 一、甲州金   立路随筆(林百助)

 

 世に甲州判と云極印の甲重と有るは、則信玄時代の金也。甲定の極印有るは、近世の金也とぞ。瀬名氏物語也。

 

 一、小豆粥太刀   立路随筆(林百助)

 

 上杉謙信川中島にて、武田信玄と太刀打の刀也。鎌倉行光作三尺一寸也。

 

 一、松前家(若狭武田)  楓軒偶記(小宮山昌秀)

 松前家は若狭の武田氏より出たり。松前を領してより、文化四年丁卯、封を移されしまで四百八十四年なりと云ふ。されども実は南部の家臣より出たり。其臣  崎下国などは、松前氏以前より彼地にありし人なり。松前氏の勇威を恐れ臣従せしものなり。今の  崎将監は実は松前隠侯の弟なり。詩を賦し畫を善くす。波響と号す。大原呑響の弟子なり。

 

 一、糞を嘗む(甘利左衛門)  楓軒偶記(小宮山昌秀)

 甘利左衛門尉晴吉は武田家の侍大将なり。松山の城攻に、米倉彦次郎銃に中り死んとす。或云、葦毛馬の糞汁を飲む時は癒べし。米倉云、勇士寧死とも糞汁を飲むべからず。甘利云、忠臣は身を全ふするを上とす。糞汁何難からん。自らころえをとり快飲して曰、味一段よろし。子宜く服すべしと、小倉感じてこれを飲む。遂に痊たり。其情は同じといえども、其意は異なり。人士の黄龍は〓通が吮癰に同く、甘利の快飲は呉越が吮疸に類せり。豈〓通人士と同口して談ずべけんや。惜哉。甘利早歳にして歿し、名を呉起に次ぐ事あたはざるのみ。

 

 一、信玄諏訪頼重ノ女ヲ納ル   草小言(小宮山昌秀)

 武田信玄の諏訪頼重を殺して、其女を納れたるは、晉獻公の驪姫を獲て夫人とせるに異ならず。其子に□齋ありて、晉国大に乱れ、□齋卓子皆殺されたり。頼重の女、勝頼を生て武田氏滅ぶ。古今一轍なり。頼重の女を納るゝ時衆不可とせしに、山本勘助曲節主の欲に従ふ。武田氏の罪人也。其善き事はこれあらん。其侫娼は憎むべし。

 

 一、萬千代君   草小言(小宮山昌秀)

 藩翰譜に、武田萬千代丸後に松平七郎信吉に改むとあり。興亡記にも、初武田、後松平とあり。然れ共瑞龍山の公の碑に、武田氏とあれば、松平に改むと云は非なるべし。

 

 一、信玄の幼名   草小言(小宮山昌秀)

 武田信玄、幼名勝千代と云へるは、父信虎の福島兵庫正成と戦たる時の出生なれば名付られしなり。然にこれを甲陽軍艦にかなにて「クシマ」とあり。これは「ふ」の字を脱したるなれべし。諸書にこの訛りを承て、「久島」に作りしものあるは失考なり。

 

 一、新羅源氏   夏山雑談(小野高尚)                

甲斐源氏を新羅源氏ともいふは、新羅三郎の苗裔なればなり。

 

 一、関東八州神祖御領   雑波江 (岡本保孝)

 改正三河後風土記巻二十八 秀吉より此たび徳川家に八州を進ぜられし事、快活大度の挙動にあらずといふべからず。其實は駿遠三甲信の五カ国を闇にうばはんとの姦計に出しもの也。関八州と雖も房州に里見、上野に佐野、常陸に佐竹、下野に宇都宮那須等、其外外国人多し。全く八州御領となりしにはあらず。駿東三甲信は久しく徳川に□せし地なれば、是を秀吉の手に入れて、甲州は尤も要地なれば、始に加藤遠江守を置、後には浅野を置、東海道の要樞の清州に秀次、吉田に池田、浜松に堀尾、岡崎に田中、掛川に山内、駿府に中村を置て、これらは皆秀吉が股肱の腹心の者どもなり。この輩を要地に置て、實は関東の喉を押へて動かすべからずとせし姦謀明らかなり。然るに関八州版圖に入て後、我国勢禰々強大におよび、終に一統の基業をひらかせて給ふに至りては、天意神慮の致す所、私智私力のおよぶ所ならず。






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最終更新日  2021年04月25日 07時24分19秒
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