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2019年04月23日
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《柳沢吉保とその周辺の人々の和歌》

(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)
 柳沢吉保は刑部左衛門安息の二男で万治元年十二月十八日江戸市ヶ谷に生まれた。
 <柳沢家>
もともと吉保の生まれた柳沢家は甲斐源氏の流れを汲む武川衆の歴々の家である。柳沢氏は青木氏から分かれた家であるが、武田家滅亡の後は吉保の祖父兵部丞信後は武川衆の諸士と議して、家康の招きに応じ、当時家康と甲斐の覇権を争っていた北条氏直の大軍を激戦の末、撃破し、功により家康から祖先以来の柳沢村の旧領を安堵の上、新恩を賜わったのである。
 信俊は慶長十九年(一六一四)十一月武蔵鉢形領今市の采地で六十七歳の生涯を終え、高蔵寺に信俊夫妻の墓がある。この信俊まで柳沢に住んでいたのである。このように吉保(の祖)は武川村柳沢がその出身であるが、吉保の代に立身出世して、宝永元年(一七〇四)には故郷へ錦を飾ることが出来、この甲斐の国を子孫永領の地としようと大変意気ごんだ。江戸時代を通じて吉保ほどの破格の出世をみた例はなかったといわれるが、将軍綱吉に対して抽きんでた忠勤、学識、修養などを考え合せれば、いかに泰平の世とはいえ吉保の出世はうなずけるところである。
 元禄十四年(一七〇一)十一月綱吉より松平の姓を許され綱吉の「吉」を賜わって保明を吉保と改めた。綱吉は甲府授封の朱印状を吉保に与えたとき、「行末いつまでもめでたいことである」と祝辞した。吉保はこの感激を一首に詠じている。
 
   めぐみある君に仕へし甲斐ありて雪のふる道今ぞ踏みなん
 
 まことにその感激と喜びの胸中が察せられよう。時に吉保四十八歳であった。
<吉保家の和歌>
 吉保は元禄文化の中にあって自ら学問、文芸を愛したばかりでなく夫人、側室、その外関係ある女性たちにも文芸の素養ある人々を集めはべらせていることは有名である。これも綱吉に対する一種の忠誠心が重なり合ったといってよいのかも知れない。その中でもとくに染子や町子は文学その他で名を残した。
<定子> 
定子については、正室であるが、日常生活は極めて質素であった。その詠歌の草稿等もよく一度用いた紙の裏を利用している。
 彼女の残した多くの和歌の中から抄出して見ると、
   ふく風の花たちばなをさそひきてむかしをしのぶ夜半の寝ざめに
   花咲かぬ梅の木ずへ(ゑ)に雌篤の春ぞときなくうぐいすのこえ
   月さえて風はだ寒きあさぢふにたれまつむしのなきあかすらん
 
綱吉五十の賀に二首羽織二枚一つは若松、一つは若竹を染めさせて
   若松の花さく春を幾千度 かぞへん君がよはひしるしも
   若竹のふしの間ごとに千世をこめて老せぬ色や君がよそほひ
<染子> 
染子は吉保の側室であるが、秀才の血統に恵まれて吉里の生母でもあることから吉保が歌集をつくり自ら序文を書いている。
    綱吉六十の賀に
   いく千代か君のよはひの若緑さかゆく春の松にちぎらん
 吉保甲斐転封がきまつたときの喜びに
   浅からずつもる恵も君がしるかひのしら根の雪やみすらん
   かいがねをこころにまかせいく千世もつかへむほるのけふにのどけき
<町子>
町子は京の生まれで、父は京都の公卿中でも学者として聞こえた正親町前大納言実豊卿で、公通卿の異母妹であった。有名な『松陰日記』を書き残した人である。
 吉保五十の賀の歌会で、
   ことぶきてけふつく枝のふしごとにこもれる千代は手にまうさなん
    綱吉六十の賀に
   かぎりなき君をばちとせとかへりの花咲く松の春に契らん
 
自分の子供二人の元服の式(宝永四年十一月二十三日)に際して町子の感慨を現わしており『松陰日記』の元になった歌の一つでもあるという。
   しげりそふ此二(ふた)もとの松陰は 栄えゆく千代を倶にかぞへん
 この歌の返しであろうか次の様に吉保がよんだものがある。
   諸ともにいく久堅の月の秋たけをならべん宿の松竹
《吉保の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)
 吉保は教養も高く国学にも心を用い、殊に和歌を嗜んで、北村季吟法印に師事し、古今伝授を再度にわたって許された。
 今、甲府一蓮寺には柳沢家寄進の「永慶寺殿肖像」が所蔵されていて、吉保自詠の和歌二首が自筆されている。
(この画像は元禄十五年に狩野常信に措かせ、翌十六年に自ら認めた)。
 
  仙洞叡覧吉保所詠名所百首の内
   御長点之歌
             少将吉保
   あらしふく生駒の山の秋の空くもりみはれみ月ぞふけゆく
   朝日影さらす手づくり露ちりてかきねにみたす玉河のさと
 
 仙洞御所は霊元上皇である。長点とは特に出来のよい作品に加える点で、この長点には吉保もよほど感激し肖像とともに後世に永く伝えようとしたのであろう。
 左近衛権少将に昇り「座班老中の上にあるべし」と命ぜられ、大老格となって幕臣としては最高位に進んだ時のものである。
 
    綱吉六十の、賀に
   君にけふささぐる枝のふして思ひをきてぞあふぐ千世の行末
 
 北村季吟父子が幕府に仕えるようになってからは、仲秋の月見か、又は九月の後の月見には毎年のように必ず自邸に季吟父子を招いて家族、家臣らと観月の歌会を催している。
 
    十五夜の月を
   ともなひていく秋もみん宿なれや あかぬ今宵の月のひかりを
 吉保の和歌は、短歌史的にいう限り、当然のように、いわゆる(旧堂上派)というべきものの型に入るもので、人間の本当の感動を詠いあげるというよりもそれは出来る限り言葉の洗練さ、スマートさに重きを置いた遊び…社交的な教養が必要としたものに近く、これはひとり吉保のみならず、この時代に生き、かつこのような地位にあった人としては当然のことでもあった。
<柳沢吉保の家臣 文人、淇園>
 また、一方には家臣の中からも立派な文化人が育っており、柳沢淇園その一人である。洪園は名を里恭(さともと)といい柳沢吉保の家老、権太夫保格の二男で、宝永元年(一七〇四)に江戸に生まれ、あざなを公美、通称権太夫、淇園、玉桂、竹渓などと号し、柳里恭ともいった。文人画をよくし、漢詩人でもある。
 
《吉保の和歌》(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)
 吉保は元禄十四年(一七〇一)から、宝永六年(一七〇九)の九年間吉保といい、宝永六年綱吉の死と共に退官し除髪して保山と号し江戸別邸駒込の六義園に隠居し、正徳四年(一七一四)に五十九歳で没した。
 この間一四年間に書き残した短冊和歌は、そのころに四季折々の感懐を諷詠されたもので温雅な筆致に吉保の日常が偲ばれるものが数多く残されている。その一部分を載せておきたい。これらは元禄文化推進の立役者としての柳沢吉保の真面目を物語るものといえるものである。
    試亳
 あらたまの春ぞにぎはふ月も日も年もはしめの千世のことぶき   吉保
    立春
 空さえし雲はかすみにたちかへてあけゆく春のひかりのどけき   吉保
    鶯告春
 夜をこめて松の志め縄くる春をまだきにつぐる鷺のこゑ      吉保
三月三日
 花の色もゑひをすゝめて三千とせのちぎりかさぬる桃のさかづき  吉保
五月五日
 うちなびき都もひなもけふは世のながきためしのあやめひくらし  吉保
更衣
 けさはまづ夏に心もあらためてかふる衣の色ぞすゝしき      吉保
七夕
 おもひをく露のかずかずかぢの葉にかきてやけふのはしにたむけん 保山
十三夜
 もろこしにしらぬ今宵や名に高き大和島ねの月のながめは
十五夜
 名に高き最中の秋の月もいまくもりなき世となおやてりそふ    吉保





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最終更新日  2021年04月25日 05時53分17秒
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