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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月24日
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カテゴリ:甲斐武田資料室
武田家終焉 殉職者名総覧

3月11日
 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。
 武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北。田野に於いて一族・郎党と共に自刃。長坂光堅らも殉ず。
 武田勝頼、甲斐国天目山にて敗北・自刃。〔理慶尼記〕
 信濃国高遠城以下を織田信忠自身が攻略したこと、仁科盛信・武田信豊が討死にしたことを知らせる。〔兼見卿記〕
3月11日
 勝頼、小山田信茂の叛を聞く。天目山の途中田野において織田方の挟撃を受け,北条夫人・信勝と共に自刃,勝頼・夫人・信勝,従う者,土屋昌恒・小宮山内膳・安倍勝宝・小原忠継・同忠国・麟岳長老らを始め士46人,侍婢女23人〔国志〕

3月11日、討ち取られた武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首を見物す。武田信豊の首は落ちてしまった。〔晴豊記〕
3月11日
 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。
3月12日
信忠及び家康は、甲府において勝頼の首に対面(翌日か?)
勝頼の首級、甲府へ
◇信長
勝頼の首は直ちに信長の本営に送られる。
30月14日
進軍中の信長の元へ勝頼の首級が届けられる。信長は勝頼の首級を杖で突き、足蹴にしたという。[常山紀談]
3月14日
 織田信長、信濃国伊那郡波合に着陣。
3月16日
織田信長のもとへ武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が到来した。
3月17日
 徳川家康、信濃国諏訪に織田信長を訪問し対面。
3月20日
 織田信長、信濃国上諏訪に於いて木曽義昌・穴山信君・小笠原信嶺らを謁す。
3月22日
 甲斐国より武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が上洛。
 京都に於いて3つの首級が「獄門」に架けられた。〔言経卿記〕
3月22日
 山科言経は、武田勝頼・武田信勝・武田信豊の首級が近日中に播磨国へ送付され梟首されることを知る。〔言経卿記〕
山科言経の『言経卿記』
山科言経の『言経卿記』天正十年三月二十二日条には、武田氏が滅亡し、勝頼・太郎信勝・左馬助信豊の首級が京都に送られてきたことが記してある。
〔多聞院日記〕
3月23日
 多聞院英俊、織田軍が甲斐国を「悉落居」させたことを知る。
 多聞院英俊、去3月22日夕方に武田勝頼・武田信勝・武田信豊の3首級が京都に到着し、3日間梟首された後に播磨国へ送付されることを知る。〔多聞院日記〕

武田氏の滅亡
『甲斐』所収武田浪人之研究【四】
赤岡重樹氏著(『甲斐国志編纂者』)一部加筆
 
織田信長積憤の情抑へ難く、一挙にして武田氏を滅さんと欲し、天正十年春自ら将となり。嫡子信忠を先鋒にし信濃口より打入り、また別に徳川家康をして駿河路より甲斐に向って進出せしめた。
三月三日、信忠は信州上諏訪に到り、諏訪社を焼き、勢い頗る猖獗を極めたので高島城将安中忠基、深志城主馬場美濃守の嗣など皆な城を捨てて去っていった。
この時信州にある甲州勢より敗戦の報、頻々として新府城(韮崎)に到着したので上下色を失い愕然として茫然自失の有様であった。
しかし勝頼は従容自若として動ぜず、木の香未だ床しい(新築)新府本丸の大広間に諸将を集めて軍議を催した。
信州上田城主真田昌幸は上州我妻郡岩櫃城に籠って勝頼を迎えんとしたが長坂釣閑、跡部勝資等の拒む所となり、加えて小山田信茂が罷り出てその村都留郡岩殿城は天下無雙の要害なる所以を説き、勝頼これに従い衆議は忽ち決し、岩殿城を指して落去する事になった。即夜登足の用意をなし、火を新府誠に放ち妻子を率いて従者五百余人、多くは徒歩にてこれに従った。鶏鳴末代暁を報せざる頃鶏坂、見返り塚、泣山を行き過ぎて古府中へ出で、しばし一条の館に立寄ることになった。住み慣れし古城を眼のあたり見るにつけ、来し方、行く末の事のみ思い案ぜられて、御簾中を始め奉り、女﨟、女房まで抽を搾りぬるぞ是非もなき。朝餉の箸も取敢へす、運ぶ歩みも遅々として一条小路より和田平町へ出て、逢かに善光寺を伏し拝み。其の夜は柏尾に着し、理慶尼の庵に宿した。
七日、織田信忠は上諏訪より甲府へ押入り、一条の居館に陣を敷いた。徳川家康もまた駿州興津を発し、翌日甲州万澤に屯し、始めて勝頼敗走の報を得て諸卒を督励し、穴山梅雪の薦導によって身延、下山を経て市川口から攻め入り文珠堂に陣を敷いて信忠の軍に饗応した。
勝頼は柏尾に宿し、このところより駒飼に入り、石見宅に留まること七日間、岩殿城よりの吉報を待っていた。然るに小山田信茂受心して勝報に叛き、小山田義国を以っておのれの母を誘致し、笹子嶺に柵を設けて勝頼の進む道を拒んだ。
勝頼始めて信茂の心変わりに憤怨したが、すでに天運はすでに傾き。大勢は如何ともする事が出来なかった。剰え味方の軍兵ことごとく離散し主従僅かに四十余人、このような所に織田信忠は諏訪より甲府に迫り、甘利左衛門尉、大熊備前守、秋山摂津守等の勇将、天目山下地下人等と共に田野村に防戦すると聞き。腹背悉く敵を受け、進退全く極まり、漸く日川の渓谷を辿って天目山下田野村へ遁れ入った。弥生十日、月も姿を山の端にかくした頃であった。
明くれば十一日、徳川家康は穴山梅雪と共に市川の文珠堂を出で、織田信忠は甲府で会見した。此の日勝頼主従は田野村に迷い入ったが、郷民は既に蜂起し、辻弥兵衛を大将として叛旗を翻す。討手の将瀧川儀太夫、篠岡平右衛門先は陣を承はって都合五千余人、裏山から切って落した。
勝頼、信勝各太刀、鎗をとって奮戦したが衆寡敵せず、土屋総蔵、小宮山内膳、阿部加賀守、温井常陸等の名勝と共に傷付き勝頼、信勝は相次いで自殺した。
小原丹後守、弟下総守、金丸助六女房達を介錯し、後腹かき切ってこれに殉じた。尾張の牢入関甚互兵衛。勝頼父子の首を探し出し、瀧川左近これを織田信忠の見参に入れ、後、関嘉平治、桑原助六、両人は勝頼の首を持参させ織田信長に見参した。
 織田信長は信州波合にあって実見し、大いにこれを辱しめ、十五日には飯田に晒し、更に家康に実見させ、後京都へ送り、四條河原に夫人・信勝と共に晒首にした。
此時典厩信豊もまた小諸城主下曾根信恒の反忠に依って殺され、首は長谷川興次が信長に献じて、勝頼父子の首と共に京都へ送った。
 典厩の若衆、朝比奈弥四郎は、今度の討死を究め、上原布陣の時諏訪の要明寺の長老を導師に頼み、・戒を持道を付け頚に懸け、最後に典厩(武田信豊)を介錯し、追腹を切り、名誉無是非題目也(信長記)
三月二十三日、武田勝頼、信勝父子及び武田信豊の首級は京師に至る。依ってこれを下御霊社前の獄門に晒す。洛中、洛外 とも鼓騒する。
《注 参考資料》
晴豊公記・言経卿記・兼見郷記・多門院日記
立入文書・蓮成院記録

歴々討死相伴衆
 《信長記》
  武田四郎勝頼 武田太郎信勝 長坂長閑 秋山紀伊守 小原下総守 小原丹後守
 跡部尾張守 跡部息 安部加賀守 土屋右衛門尉 りんがく長老
 中にも比類の働なり。己上四十一人侍分、五十人上臈達女分三月十一日己刻各相伴相果。

《古事記嚢記載 田野景徳院過去帳》
阿部加賀守貞村 土屋総蔵昌恒 秋山源蔵親久 金丸助六 秋山紀伊守 秋山十次郎
  小原丹後守 小原忠五郎 秋山民部丞 秋山弥十郎 温井常陸守 小宮山内膳
  小原下総守 小原宗十郎 小山田弥助 多田新造 多田角助 岩下右近 岩下左膳
  寺島藤蔵 友野刑部少輔 甘利采女 友野又一 甘利彦五郎 曾根内膳 小山田大学
  安西平右衛門 雨宮織部 雨宮善次郎 雨宮十兵衛 安西十左衛門 安西源次郎
  川村五兵衛 浅羽右近 榎並新蔵 山下杢助 薬袋小助 岩井源蔵 円首座
 以上四十一人、  
  
《甲陽軍艦》
武田勝頼 武田信勝 土屋総藏 秋山紀伊守 小山田平左衛門 小山田弥助
  小山田お皃 土屋源蔵 金丸助六 秋山民部 秋山むすこ 坊主円首座 阿部加賀守
  温井常陸守 小宮山内膳 小原丹後守 小原下総守 岩下捴十郎 小原下総守
  大龍寺 麟岳和尚 御鷹師 斎藤作蔵 山居源蔵 御若御歩衆 山下杢助 見ない小助
  ぬきな新蔵 歩の二十人衆まで、斯様に御共、全て四十四人なり。

《当代記》
 三月十一日、先勢滝川右辺人数押入、勝頼同太郎切テ出相闘テ討死、勝頼三十七歳、土屋惣蔵無比類討死、年二十七歳、是は勝頼小姓土屋右衛門の弟なり。
相従う侍五十余人遂討死。

《甲州安見記》恵林寺蔵
 天正十壬年三月十一日、甲州都留郡田野にて討死
  土屋惣蔵昌恒(金丸筑前の五男、二十七歳)小山田大学(二十歳)高尾伊賀守
多田角助(次郎右衛門の子) 寺島藤蔵(甫庵の子) 友野又市(刑部の子)
阿部加賀忠高(初、五郎左衛門) 小山田大学(二十歳) 温井常陸景隆 
小宮山内膳友信(丹後の子) 金丸助六昌義(筑前守の四男)
小山田平左衛門國則(兵衛の従弟) 小山田掃部義継(兵部の甥)
小山田禰助(平左衛門の弟) 小山田小児 秋山紀伊光次 小原丹後守秋清  
小原忠五郎(丹後守の子) 小原下総忠國(丹後の弟)土屋於兒 
小原惣六(下総守の子)多田久蔵(淡路守の孫) 圓首座  麟岳和尚(大蔵寺)
寮藤作蔵 山下杢助(四十五歳) 薬袋小劫 抜名新劫 甘利采女 川村五兵衛
甘利彦五郎(釆女の子) 曾根内膳 安田十郎左衛門 雨宮織部 小尾五郎助
安田源十郎(十郎右衛門の弟) 雨宮善次郎(織部の子) 小尾十兵衛 秋山杢助 
安西伊賀 岩下惣六 秋山惣九郎 秋山民部 秋山宮内 小原源五左衛門  
神林清十郎 小原清次郎 有賀善左衛門(右衛門とあり) 土屋源右衛門  
窪澤治太夫 河村下締守 跡部尾張守 
土屋兄弟三人(二十五歳、二十二歳、十九歳と有り未詳)


麟岳大和尚      円首(公)座禅師
忠叟屋存孝       土屋宗蔵昌恒
慶室(宝)道賀    安部加賀守貞村(安部加賀守勝宝・かつとみ)
 ※(天正四年四月、信玄の安骨葬儀にあたり、その寿像と遺品を高野山に登り、信玄の菩捷を弔う)


天童山景徳院 主従牌子死者名

景徳院殿頼山勝公大居士  武田勝頼 三十七歳
北条院殿模安妙相大禅定尼 同 夫人 十九歳
法雲院殿甲巌勝信大居士  武田信勝 十六歳
       
大龍寺麟岳和尚   秋山紀伊守継弟
忠叟道節居士    小宮山内膳正
金渓道助居士    金丸助六郎昌義
  忠庵存考居士    土屋惣蔵昌恒
源与道屋居士    土屋源蔵親久
  秋峯道記居士    秋山紀伊守光継
  観応月心居士    秋山民部丞光明
  傑傳宗英居士    秋山宗九郎光英
  清寒霜白居士    秋山宮内丞昌満
  堅英了雄居士    秋山源三郎景氏
  水村山谷居士    山下杢之輔安政
  跡叟道張居士    跡部尾張守久能
  慶室道賀居士    阿部加賀守勝寳
  西安道伊居士    安西伊賀守有和
  鐡巌恵船居士    小原丹後守忠次
  空岸東海居士    小原下総守忠国
  一峯宗営居士    小原下野守
  寒一全性居士    小原弥五左衛門
  原清道次居士    小原清次郎忠久
洞厳泉谷居士    小山田掃部介義次
  中原実寶居士    小山田平左衛門
  明監道白居士    小山田弥介国房
久桂芳昌居士    小山田於兒
  常叟道温居士    温井常陸介氏照
清神道林居士    神林清十郎定親
  圓応寒光居士    多田久蔵盛房
  重屋道善居士    有賀善左衛門親忠
  天真了然居士    窪沢次太夫重知
  本光道如居士    薬袋小助信里
  月窓江海居士    岩下惣六郎
  松峯道鶴居士    貫名新蔵元重
  虚空道幽居士    山井源蔵正久
  即應浄心居士    斎藤作蔵昌勝
  河伯道総居士    河村下総守
  圓光首座      秋山民部の子 大龍寺従弟

 以上三十五人、僧二人、士三十三人

受難女子の法名
妙法禅定尼     伏見織部正延照女 松代
妙華禅定尼     小澤宮内少輔宜澄女 松江
妙観禅定尼     長沼主膳正正式女 美佐保
妙音禅定尼     今福筑前守義則女 富士江
妙薩禅定尼     清水主計助義内女 三保野
妙門禅定尼     藤巻越前守廣貞女 菖蒲
妙第禅定尼     初鹿野傳右衛門佐京昌久女 小笹
妙十禅応尼     八巻十郎兼直女 梅木
  妙蓮禅定尼     横手監物満俊養女 呉竹
妙経禅定尼     清水左京太夫美重女 澄江
妙世禅定尼     河西式部少輔良昌妹 白妙
妙菩禅定尼     打塚左京亮女 花里
妙普禅定尼     佐久間石見守貞女 楼木
妙品禅定尼     駒井越前守信為女 玉章
妙二禅定尼     窪田右近長次女 錦木
妙五禅定尼     五味興惣兵衛長遠女 綾糸

以上十六人 女子の親族関係は平山次郎兵衛所蔵の過去帳によってこれを記載する。
按ずるにこの殉難将士の牌子は甲陽軍鑑所載の氏名に寄りて後人の附會せしものならんか。殊に女子法名の如きは最も疑はし、暫らく附記して勘考の資に供す。


武田勝頼の首級

勝頼の首は信勝の首とともに伊那浪合の山村まで出向いてきた信長の実検に供され、小諸城で殺された武田信豊の首とともに京都の下御霊社前の獄門に晒される。
甲府法泉寺の僧侶が、恵林寺に住むなど武田家と縁が深い妙心寺の南化玄興の協力を得て信長から三人の首をもらい受け、妙心寺で葬儀を執り行う。
勝頼らの墓地は妙心寺の中心、玉鳳院の裏手にある。法泉寺の僧侶は葬儀に参列し、勝頼の歯髪の一部をもらい受けて帰国し、その境内に手厚く埋葬する。


高野山の供養塔
また天正17年3月27日高野山に墓が建てられる。勝頼の菩提寺は
❖高野山
大和村田野の天童山景徳院
泰山宗安大禅定門(高野山引導院)
❖京都妙心寺
 玉山龍公大禅定門(妙心寺)
❖甲府市の金剛福聚山法泉寺
法泉寺殿泰山安公大居士(法泉寺)
❖甲州市景徳院
景徳院殿頼山勝公大居士(景徳院)





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最終更新日  2021年04月24日 07時08分44秒
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