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2019年04月24日
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 参考資料『折りたく柴の記』新井白石著 一部加筆
吉保関係記事
中 
綱吉将軍薨去と「生類憐み令」(仮称)の廃止 その時吉保は
 宝永六年(一七〇九)の春正月十日に、綱吉将軍薨去の報があり、明日人々は皆西城に参上するようにとの告知があった。自分も翌十一日に参上した。その時、意見書を袖に入れて、詮房朝臣を通じて奉ろうと思ったが会えなかったので、その舎弟の中務少輔詮衡(あきひら)を通じて奉った。(今の淡路守のことである)のその意見書には、当面の急務である三力条を記しておいた。この日、夜になって雨が降った。これは、去年の十月二十日以来はじめて降った雨であった。十二日にも、また参上して意見書を奉った。この夜また雨が降って暁までつづいた。これ以後毎日参上したが、まだ詮房朝臣には会わなかった。十五日になって、はじめて会って、これまで申しあげたことなどについて、様子を聞いた。十七日に、当十銭を廃止されるという仰せがあった。この夜また雨が降って、暁までつづいた。人々の宅、地、町々等を他所に移転さすこと、などが中止になったのも、この頃のことであろう。
 当十銭のことは、前に記したように、去年の冬以来、商人たちに使用する旨の証文をさし出すようにとあり、その催促は、去の日までつづいた。また人々の宅地や町々を移転させる件も、年がすでに改まったので、家を壊し、家屋を作り、資財雑具などを持ち運んだ。先例では、将軍薨去の場合には、七日ぐらいは工商ともにその仕事を休んだが、その期間が過ぎると、の売買、家屋の建築なども始まるので、これらの御沙汰がなくては、世の人は安心できないのあろう。それではよくないので今日の事を仰せられたのである。
十九日参上した時、元和令ついて仰せがあったので、家に帰って、その夜、「神祖法意解」一冊を撰述して、明日献上しょうと思ったところ、夜が明けると召されたので、参上してその書をも献上した。午後一時すぎに帰宅したが、重ねてお召しがあったので参上した。この日、前代の御時に制定せられた、「生類あわれみの令」が停廃された旨を承った。二十二日になって、御葬送の儀があった。雨が降りつづいたので、この日になったのだということである。
 ある人の言うのに、御葬送の儀が今日まで延期になったのは、ほんとは雨が降りつづいたためではない。理由があってのことである。
 いつの頃であったか、世継の君が参上されたところ、少将吉保(柳沢)、右京大夫輝貞、伊賀守忠栄、豊前守直重などの朝臣をはじめ、近習の人々を召されて、
「自分が年来生類をいたわったのは、たとえ不条理のことではあっても、このことだけは、百年後も、自分が世にあった時のように御沙汰あるのが孝行というものである。ここに祇候の者たちも、よく心得ておれ」
と仰せられた。
 しかし、この数年来、このことのために罪におちた者は、その数何十万人に及ぶかわからない。未だに判決がきまらず、獄中死の屍体を塩漬けにしたのも九人まである。まだ死なない者も莫大な数である。この禁令がのぞかれなければ、天下の憂苦はなくなるまい。
 しかし、あれほどまでに遺言しておかれた禁を、当代になって、除かれるのもよろしくない。ただどのようにもして、
遺誡のとおりでありたいとお考えになったので、まず吉保朝臣を召して、考えられたことをおっしゃつた。
この朝臣もともとこの禁令をよいと思うはずもなく、とくに前代の御覚えは他に異なっでいたものの、薨去後はどうなるかわからないと思ったので、
「仰せのおもむきは、まことに御孝志の至りと存じます」
と言ったので、
「では輝貞をはじめとして、今までこのことを司っていた者どもにこの旨を伝えよ」と仰せられた。そこで吉保が人々に仰せを伝えたところ、一人として異議を唱える者はなかったので吉保はその旨を申しあげた。
それではというので、二十日に御棺の前においでになって、
「はじめ仰せを承りましたことは、わたくしとしましては、いつまでもそむくことは致しません。ただ天下人民のことになりますと、思うところがありますので、お許しをいただきたいと存じます」
とおっしゃった。そしてむかしかの遺誡を承った人々を御棺の前に召し出されて、それまでのいきさつを説明なさり、そのあとでこの禁令を廃止する旨を仰せられたのである。
まだ御葬送の儀も行なわれないうちであったので、世間ではこれが御遺誠のことだと思ったのである。
また今夜の御供をすべき近習の人々のうち、髪をおろすことを希望した者も少なくなかったが、これも旧例によってその人数が一定しているので、その人を選ぶ役目は、吉保らの人々に申しつけられた。この時に吉保も髪をおろして、御供をしたいと望んでいる由であった。
(将軍家宣)「この上ない御恩に感じて、そのように思うのはもっともであるから、自分はそれを止めようとは思わない。しかし代々の例を考えるに、貴殿のような方が、髪をおろして御供をしたためしはない。むかし厳有院家綱公の御代になって、殉死を禁止された。今また自分の治世のはじめに、これらの例をはじめるのは、適当でないであろう。所詮は、御葬事が終ってから退職して、子息に家督を譲って後に、望むとおり髪をおろしたら、代々の例にも違反せず、また自己の志をも遂げることになろう」
 と、おっしゃつたので、この吉保朝臣はついに仕えを辞されたという。

一、宝永元年(一七〇四)十二月五日に、世継ぎの君におなりになったと聞き、祝賀のために馳せて滝口の近くまで来た。その時、間もなく西城にお入りになると云って、道行く人を止めている。(御徒衆である)私(白石)自分を名乗って、参内すべきことがあるためだと言うと、「ではお通りなさい」と許された。藩邸につくと、お迎えの人々が参集している。美濃守吉保朝臣をはじめ、御供に祇候(しこう)【つつしんでお側に奉仕すること。】すべき人が来ていた。云々
二、この頃(宝永二年)ことである。小出土佐守と井上遠江守が争論したことがあった。やがて小出は職を奪われ、先般加えた土地を削られた。これも戸田が正武朝臣と御相談申し上げたためである。はじめて藩邸にお出での時分、戸田は小出と同時に仕えていたが、年来小出の事をよく思わず、井上遠江守の兄弟河内守正岑朝臣は、当時家老である。また京大夫輝貞朝臣の母方の従兄弟であるので、少将吉保朝臣に結び付いた仲である。だから讒言も行われ易いのはもとより
だと、ある人が言っていた。
三、富士山火山
宝永四年十一月二十三日午後参内するように仰せがあった。昨夜地震があり、この日の正午雷鳴がした。家を出る時、雪の降る与ようなのをよく見ると、白灰が降ってくるのであった。西南の方を望むと、黒雲が起こって、しきりに稲光がしている。西城に着く頃には、白灰が地を埋めて、草木もまた皆白くなった。この日は大城におでましになり、午後一時
に御帰還になり、(この日吉保朝臣の男子二人に叙爵のことがあったからである。)やがて御前に参上すると、空が非常に暗かったので、燭をともして講義を申しあげた。午後八時頃に、灰の降るのはやんだが、たえず地鳴りがし、地震はあとを絶たない。二十五日に、空は暗く、雷のふるうような音がし、夜に入ると、灰がまたおびただしく降った。この日富士山が噴火して、焼けたからだという噂であった。これから後、黒灰が降りやまずに、十二月の初めまでつづき、九日の夜になって雪が降った。この頃、咽喉を痛めない者はなかった。
こうして年が明けて、宝永五年正月元日、この日たいへんな大雨が降った。閏正月七日、去年富士山が焼けたため、付近の国々の土地を埋めた灰や砂をのぞくための夫役を諸国に課せられた。
 武蔵、相模、駿河の三州の土地のためである。百石の土地から黄金二両を献上せよとのことであった。
 同二十八日、当十銭(宝永通宝のこと、一個が十文にあたる)を鋳るように下命があった。三月頃になって、地上に白毛が生ずるところがあるという噂があったが、間もなく、白分の宅地にもこの怪事のあるのを見た。このほか天変地異がつづいて起こり、この年も暮れたが、実際に見たのでないことは、ここには記さない。六月のなかばになって、自分の家の近辺の町々を他所に移転させ、また多くの人々の宅地をここかしこに移されるという噂があった。これは、城北に御所を作られるためであるという。八月のなかばには、馬の頸毛を刈ることを禁止される旨を問いた。これから後は、人々の牽いている馬も、乗っている馬も、みな野生の馬のようになった。九月の末頃には、かさねて当十銭通用の仰せがあり、十月になると、畜類を憐めという三条の令が出された。この後は、馬に乗らなくてはならぬ身分の人々は、馬をひくばかりで乗ることはなくなった。また商人どもが、当十銭の使用に難色を示していると聞かれて、富者も貧人も、老少男女一人も残らず、当十銭を使用する旨の証状を差し出せよといって、毎日その催促があるなどという間に、年も暮れた。明れば宝永六年の正月元日には、去年からの将軍御不例のため、世継の君が拝賀をお受けになった。七月にはわたくしは病気にかかったので、出仕できずに家にこもっていたところ、十日の昼すぎ頃から、なんとなく人の往来がはげしくなったのをいぶかしく思っていると、日の暮れる頃、将軍薨去の報があったので、まったくおどろいた次第であった。云々 






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最終更新日  2021年04月24日 06時42分40秒
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