2310869 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月24日
XML
宝永一月二十七日 国家財政
 (前文略)
この意見書を御覧になって、仰せられたこと二度二度ののち、
「お前の言うことは道理である。しかしこれは国家の大計である。よくよく考えられなければならない」
と、おっしゃったが、間もなく今の法皇の皇子秀の宮とかいう方に、親王を名のられるようにと仰せられた。
その後また、前代に皇女御降嫁のことをも仰せ定められた。これらの事どもは、自分がこの国に生まれて、皇恩にお報いしたことの一つである。しかし自分がひそかに心配したように、前代家継公がおかくれになって、ついに天下の大統が絶えてしまわれた御事は、人力のよく及ぶところでもない。しかしまた、自分がこれらの事などを申したこともあるので、万年の彼の事をも深く遠く考えておかれたように、当代吉宗公という御あとつぎがおられたことは、これまた天下の大事というべきであろう。
 秀の宮の御事は、高貴な人が、むかしから親王家をおたてになるのは困難なことであるとおっしゃっておとめになったが、用いられることなく、公家にとりたてられたと聞いた。まことに有難いことである。しかしこのことは、御自らわたくしにお聞かせになったことではないので、本文には記さない。
 この意見書には、和漢古今の事などを合わせ論じたので、文章は特別に長く、またそのことは浅学の人のすべてに理解して貰う必要もないので、ここにはただその大要だけを記した。この意見は将軍宣下のことに関与したことがあるので、この時奉ったのである。
(国家財政の危機 筆者挿入
二月三日、お召しがあったので参上した。詮房朝臣に仰せ下されたことに、大喪の後は、家老たち一人ずつを本城に宿直させている。ところが彼らが言うに、かようなとき一日でも本城に主君がおられないのはよくない。自分がすみやかに移るべきであるというのである。代々の例によれば、前代も常の御座所を改造して移られた。
今度は大御台所の移り住まれるべき御所をつくって差しあげる予定なので、これらのことについて協議させたところ、国財はすでにことごとく尽き、今後のためには少しも残っていないという。前代における国家の財政は、大久保加賀守忠朝がつかさどっていたというが、実際は荻原近江寸重秀独りに委せられたので、重秀は美濃守吉保、稲垣対馬守重富らと相談したのである。だから加賀守もその詳細を知らず、ましてやその他の家老たちは関与していない。
いま重秀が議り申すところは、御料地はすべてで四百万石、年々納入される税金はおよそ七十六、七万両余、このうち長崎の運上というもの四万両、酒運上というもの六千両、これらは近江守が命じたところである。
このうち夏冬御給金として二十万両余を除くと、あまるところは四十六、七万両余である。ところが去年の国費は、およそ金百四十万両に達した。このほかに内裏を造営て差しあげる費用がおよそ金七、八十万両要るであろう。したがっていま国財の不足分は、およそ百七、八十万両を越えている。たとえ大喪の御事がなくても今後使用しうる国財はない。まして、当面の急務たる四十九日間の御法事の費用、御廟を建てる費用、将軍宣化の儀を行なうための費用、本城に御移転になる費用、このほか内裏造営のための費用はなお必要である。ところが現れ、御偶にある企は、わずか三十七万両にすぎず、このうち二十四万両のは、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くための夫役を諸国に課して、およそ百石の地から金二両を徴収された約四十万両のうち、十六万両をその費用にあてられ、その余りを、城北の御所をお作りになる費用として残しておかれたのである。これより他に、国家の費用にあてるべき金はなく、たとえ今これをもって当座の費用にあてても、十分が一にも足りないであろう、というのである。加賀守をはじめ、みなみな大いに驚き、心配して近江守に考えさせたところ、前代綱吉公の御時、毎年支出が歳入よりも倍増して、国財がすでに破綻しはじめたので、元禄八年の九月から金銀貨を改鋳された。それ以来今まで、年々に収められた公利は、総計およそ金五百万両であった。これでもっていつもその不足分を補充していたしところ、同じ十六年(元禄)の冬、大地震によって傾いたり壊れたところを修理せられるに及んで、かの年々に収められた公利も、たちまち使い果たしてしまった。
 その後、また国財の不足が、以前どおりの状態になったので、宝永三年(一七〇六)七月、重ねてまた、銀貨を改鋳されたが、それでも歳費に足りないので、去年の春、対馬守重富のはからいで、当十銭を鋳出することを決行した。(近江守もこの十銭のことはよくないことだといっていたという)今になって、この危急を救うには、金銀貨を改鋳される以外には、カ法はないでしようと言う。加賀守は年来このことに関与していてすら、それでもこの詳細を知らず、ましてその他の者は、これらのことは初耳なので、今になって、どうとも考えようも知らず、ただ近汁守が言うとおりに従おうという旨を述べた。自分もこの年来、国費が不足であろうとは思っていたが、これほどの窮迫ぶりだろうとは夢にも思わなかった。
しかし金銀貸の改鋳は、わたくしの賛成する事でなく、この事以外は、よろしく相談しょうと言った。重ねて、また、近江守が言うには、はじめ金銀貨の改鋳を行なって以来、他の人の批評をまぬかれなかったが、もしこの方法によらなかったならば、十三年ばかりの間、なにをもって国の費用を補うことができたであろうか。ことに、また元禄十六年(一七〇三)の冬など、これによらなかったら、どうしてその急難をお救いになれたであろうか。だからまずこのことによって応急の処理をなし、これより後に年々の穀物も豊かにとれ国財も余裕を生じた暁に、金銀貨の製法をむかしに返されることは、きわめてやさしい事あろう、と言う。
 皆のいうところもまたこれと同じで、天下の変事はいつ起こるかわからない、今のような事態であったら、もし今後重いがけぬ異変が起こった時、なにをもってその変に対処することができよう。ただ彼の意見に従うに越したことはない、というのである。
自分はこれに答えるのに、近江守が言うところも、道理があるように思われるが、はじめ金銀貨の改鋳のようなことがなかったら、大地の災変も、うち続いて起こらなかったかも知れない。もし今後思いがけない異変が起こった時、その変に対処べき方法がなかったら、わが代においては、神祖の大統が絶えらるべき時が来たのである。どうして、自分はまた天下人民の怨苦を招くような愚かなまねをしようか。ただ、どのようにも、他の力法を以て処理に当ってくれよ、と言った。
 この仰せを聞いて、小笠原佐渡守長重は、しきりに涙を流して、言う言葉もなかった。しばらくして、秋元但馬守喬朝だけが、ありがたい仰せを承りましたと言ったので、人々は御前を退出されたということである。
 この事は天下の大議である、よろしくはからうように、との仰せがあった。
 わたくしはこの仰せを承って、現在ここには去年の春に諸国から徴集された金の余分だけはあるはずである、大坂の御蔵にある分はどうなのでしょうか、と言った。そのことをも問わせられたところ、それも残らず使いつくされたということだ、と答えられた。神祖家康公の御時、東金千枚ずつで大分銅を作られて、「行軍守城之用、莫他費」と銘を彫られたものがあったと聞いています。「これらの物はどうなっておりましょうか」と申しあげると、そのことをも問われた。するとそれも「ただ一つ二つを残しておいて、その他はすべて新金貨の材料となされた」ということである、と答えられた。窮しては通ずということが、大易にも見えています。ましてやただいまは国財が窮乏しておりましても、それでも天下の富を保有しておられる御事ですから、どうして、難局打解の道のないはずがありましょう。この程度のことで御心を苦しめられるまでもありません。わたくしがよいようにはかって差しあげますと申しあげて下さい、と言って退出した。
 四日には申しあげようと思ったことがあったが、またこのことを承ったので、一晩中かかって、このことについての考えを記して、夜が明けると、意見書二通を袖にして、詮房朝臣を通じて奉呈した。この事について考えた大要は、
「事ヲ敬シテ信ニ、用ヲ節シテ人ヲ愛シ、民ヲ使ウニ時ヲ以テス」
というのは、「論語」において、孔子が政治をする場合の為政者の心得べきことと記された第一義であります。大学の書には
「コレヲ生ズル者衆(オオ)クシテ、コレヲ食り者寡(スクナ)ク、コレヲ為(ツク)ル者疾(ト)クシテ、コレヲ用ウル者舒(ユルヤ)カナレバ、則チ財恒ニ足ル」
とも見えております。すべてこれらの事どもは、年来調べ研究なさったことでありますから、今あらためて論ずるまでもないでしょう。今後、その道さえ踏みはずされなければ、数年を出ずして国財は豊かに足りるようになりましょう。ですから金銀貨の改鋳を重ねて行なうべきだという意見をしりぞけられた御事は、実に天下の幸甚というべきであります。人々の議し申さるるところの、四十九日の御法事のことをはじめとして、御廟をお造りになること、また将印宣下の御事などのごときは、たとえ国財が不足であっても、これを中止なさるべきではありません。ただすみやかに前代の御座所を取り壊されて、新しく御所を作り出されてお移りになるという一件では、たとえ国財が豊かに足りていても、なおこれは臣子の情として忍びないところがあります。およそただ今の大きな儀式は、皆これ大広間や御書院などで行なわれておりますから、どのような大きな儀式でも、ただ今までのように、かしこにおいでになってその儀式を行なわれ、国財もやや足りるようになってから、御座所を改造されてお移りになるのが、よろしいと思います。
またただいま国財が急迫している事情についても、近江守の言ぅことは、納得できません。その理由は、彼の言うところによると、今年の国費にあてるべきものは僅かに三十七万両あるだけでありますが、これはそうではありません。彼が言うところの去年使用された国費は、すなわちこれ一昨年の税課であります。それで今年の国費となさるべきところは、たとえ彼の言うとおりであるとしても、去年納められたところの七十六、七万両と、現在あるところの金三十七万両と併せて、、総計二白十余万両はあるでしょう。また当座の急用に使われる物も、いちいちまず代金を払わなくては、処置できないというのでもない。そのことの緩急にしたがって、百十余万両の金を分配して、あるいはその金代金を支払い、あるいはその代金の半分を支払って、来年になってからその残金を支払われたら、事を処置し得ないということはないでしょう。また前代綱吉公の御時に国費不足のために、まだその代金の支払いがすまない分は、今後、あるいは六、七年、ある
いは十数年のあいだに、その全額を支払われるなら、どうということもありますまい。ですから、これらの事どもは、御心労なさるに及びません。
むかし後漢の憑依は、願わくは
「国家、河北之難ヲ忘ルルコトナケン」(河北は黄河以北の地の総称)と言ったことがあります。わたくしのまた願うことは、今日の御心をお忘れになる時がなく、天下のために財の使用を慎まれたならば、大いに四海に恩恵をほどこされることになるでしょう、と申しあげた。
 この意見書を御覧になった後の、お悦びになりようはひととおりでなかった。同六日に参上したところ、前代綱吉公の公の常の御座處をただちに壊すのは、よろしくない。また金銀貨の改鋳の件は、ふたたび取りあげてはならぬ旨を、仰せられたと承った。これが、天下の大義についてわたくしに御下問のあった最初であった。     .
  去年の貢租を今年の費用に充てることを、近江守が知らないということがあろうか。しかるに、このことをいわずに、今年の国費は、僅か三十七万両にすぎないと言ったのは、御耳をおどろかして、その思ううことを退げるため である。その本心は以下に詳しく述べてある。その後、また去年の貢祖が、予想外に集まったと言って、支障なく移居の儀があった。
 しかし、そのことも、わたくしが計画していたようではなく、この造営の費用も、金七十万両を使い果たし、また御廟の造営にも二十万両もかかったということである。前代の余習がまだ収まらなかったうちのことであるから、およそ土木建築の事業があると、それに関与する者は、高きも賤しきも、それぞれ一身一家の利益ばかりをはかって、工商の類と結託して、国費を分けどりにしたからである。この後は、時がたつにつれ、それらのことは行なわれにくくなったが、また最近は、むかしのようになったのであろうか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月24日 06時41分53秒
コメント(0) | コメントを書く
[柳沢吉保 山梨北杜資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X