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2019年04月25日
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カテゴリ:江戸時代史料

戦国武将の埋蔵金 

 

飯山城、牧之島城、黒岩城、和田之城をめぐる

 

わが師 泉昌彦氏著 一部加筆

 

 

 武田家の滅びた天正十年三月十一日に先立って、

信虎の娘婿穴山梅雪は、黄金の大判十両を二千枚、

馬を家康の元へ贈って身の保全を計った。

大判一枚の目方は四三匁(一両は四・三匁)だから〆て

八六貫(三二三・五㎏)という、驚くような口伝が残っている。

ところが武田家にとつてこの程度の黄金はしれたもの。

梅雪はその経営を任されていた「保山金山」たつた一か所で、

ごまかし蓄えたものに過ぎない。

 

世に言う

「武田四八万両の軍資金」

は、

「黒川金山系(竜喰、大常木、午王印、丹波黄金沢、落合金場沢、黒川鶏冠山)」

から産したものだ、この額目方で二〇六四貫匁(七七三九㎏)、

決して過大な評価ではない。

 戦国の世を華々しく戦った群堆のスターとなった武将達は、

武田はじめそれぞれ領国に膨大な黄金山を持っていた。

群雄割拠時代戦国武将は天下を取る目的以前に、

互の黄金山の奪い合いを演じることで生涯を終えてしまった者もいる。

のちに天下を取った秀吉、家康ともこれら群雄の争った金銀山を、

どん欲に吸いあげて刀をたくわえたのだ。 

佐渡、伊豆、駿河の梅ケ島、麓、奥秩父の真の沢、股が沢。佐久の梓山、川端下。

諏訪の木の聞、金鶏、真志野。甲斐の黒川、腸の奥、保などの黄金山は群雄の遺産である。

秀吉は浅野長歌、その子長継に命じて、

甲斐、信裏、佐渡金山、陸奥、石見、伊豆、駿河の各金銀山の再掘に当たらせた。

これらの発堀に関する願書はいまものこっている。

(甲斐国志、諏訪南真志野共有文書、富士見村誌)

 家康は特に金銀に貪欲で、大久保長安(武田家臣)を金奉行に取立てて、

前記の諸金銀山を掘りまくった。

以上の結果をみても、上杉、武田、今川、北条などの諸氏は、天下を取るどころか、

金山の奪い合いを演じたにすぎず、

家康は、これらの群将のくたびれるのを待って、その金銀山を一手に収めたチャッカリ屋である。

武田の堀尽くした「残りカス」にひとしい川端下金山で、

長安は五十五万両の甲重、甲定を産金したという口碑が、

金山の坑夫だった子孫に伝えられている。

いわば北方騎馬民族の荘園につぐ、双互略奪期である。

 

黄金王をめざした信玄

 

武田諸金山の数は五か国三十七か所に及ぶ。

この他、鉄、銅、銀といった鉱山を加えたら、

信玄が父信虎以後没するまでの三十一年間に開発した大事業は、

現代の大手金属メーカーにも為しえない。

この点、上古から現代を通じ、信玄は日本一の鉱山王であったといえる。

現青梅市の三田領にも、武田の金山衆田辺党が沢井の多摩川対岸で頑張っていた。

田辺黒川党、三田勢の射交す矢が対岸へ届かず矢が流れたので、

「矢流」がなまって今の「柳ケ瀬」となった。

今の鉱山師にひとしい一団の金堀り武士団は、

天文十一年、信玄が妹婿諏訪頭重を滅ぼし、

信濃全土の金山を手に入れただけでは倦きたらず、

今川氏真の妹を室としている嫡男義信に腹まで切らせたのは、

武田より早くから金鉱石より分床練金していた駿河の諸金山を奪うためであった。

妻の里を攻めることに反対した義信を殺したことが、

悲運の将勝頼に至って甲斐国を滅亡させる結果となった。

 勝頼の室北条氏の里小田原へ三度押寄せたのは、伊豆の金銀山を奪う魂胆からであり、

上杉謙信と川中島で五回にわたる対戦をしたのは、佐渡の大金山を奪う執念からだ。

 信玄にとって天下を取ることは、

すなわち日本中の黄全山を一手に治める鉱山王になる為といった見方の方が明確に理解できる。

騎馬武者を先頭に、徒(かも)武者を従え、怒濤のように侵略する群盗は、

西方のスキタイ、フン族、東方のキョウド、モオコ、東北アジアのフロ・ボッカイが、

善良な農耕民族を虫ケヲのように虐殺して暴れまわった延長としての群盗行為を思わせる。

こうした見方は、実際に取材困難を極める。

一都四県下の各金山の現地と文献を漁っているうちに益々その喘を深める。

信玄の攻撃目標がすべて有望な全山におかれたという判断は、文献の上からも成立つのである。

 わずか三十二年の治世中、あらゆる肉身、縁類、部下を黄金山略取の犠牲に供している。

この点、信玄は黄金に取憑かれた亡者であったともいえる。

では激しい黄金山争奪戦の間に、後世に伝わるような埋蔵金が残されているのだろうか。

 ではそのデッカイ夢だけでも楽しくなる有力な埋蔵金前説をたどって、

手まめ足まめに探ってみょう。






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最終更新日  2021年04月24日 06時32分00秒
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