カテゴリ:甲斐武田資料室
明応 元年 1492【妙法】 ○此年も年号色々也。大飢饉無申計売買なし。北条御所遷化。 牛馬死事無限。塩初は四貫文、後は三貫六百文に壹駄賣。 ○此年、六月二日、大雨降、在所皆流れる也。 此年、歌弦習京より西洞院とて習はせ玉ふ也。稽古三圧十四日より也。 明応 元年 1492 7月22日【山梨】 ●武田信縄・信恵兄弟戦う。これ以後、二人の争いが続く。 明応 元年 1492 9月 3日【山梨】 ◎今川氏親の軍、甲州に乱入。 ◎甲州へ駿河衆出張□□【王代】
延徳 四年 1492 6月11日 (改元 7月19日)【妙法】 ○此年、六月十一日、甲州乱国に成始る也。 当年夏より世間くつろく也。 《筆註 年号が重複するが『妙法寺記』の記述のまま掲載する》
明応 二年 1493【妙法】 此年、甲州以ての外物騒也。惣領度々合戦負玉ふ。世間福貴す。 ○売買安し。駿河国より伊豆へ打入也。
明応 三年 1494【妙法】 ○此年、売買吉。吉田村諏方大明神。鐘武州より鋳て上る。 ●三月十六日、合戦には武田彦八郎殿負玉ふ。大蔵大輔打死。同山中殿打死也。 ●三月、甲斐守護武田信縄、弟信恵と戦いこれを破る。【戦国】 ○此年藤澤道場焼る。同当麻道場焼る。耕作二分の實入也。
明応 四年 1495【王代】 ○此年七月善光寺焼。 ○タカナシ村上ト取アヒテ高ナシヤク。三年の内に高ナシ悪病付。如来帰寺。 明応 四年 1495【妙法】 ○吉田鐘楼堂此年卯月申日に棟上す。 ○御所島へ落玉ふ。此年八月、伊豆より伊勢入道甲州打入鎌山に陣を張たれども、和談に而引返す。 ○七月十三日、大風吹作一本も實不入飢饉す。岡光長寺の大坊此年定り玉ふ也。 明応 四年 1495 8月【山梨】 ◎北条早雲、都留郡に侵入するが、和睦して撤退。
明応 五年 1495【王代】 ○閏二月在。四月十七日、一条炎上。 ※赤松悪病ニテ五月死ス。 明応 五年 1496 閏月2月【妙法】 ◎此年、北条君武州より甲州都留吉田正覚庵に移り玉ひて富士へ御出。 明応 五年 1496 7月【妙法】 ◎此年、伊勢入道の弟彌次郎七月郎党太敷共に打死す。 明応 五年 1496 8月16日【妙法】 ○此年、八月十六日、大水又大風吹て作毛悉損る也。 明応 五年 1496 11月【妙法】 ○岡大坊客殿霜月大原より造立而、本寺を越奉る本寺の十羅刹堂此年造立也。 冬、ひでり(日照り)此年国坊為現世安穏後生霊山之本門寿量品奉誦始る也。
明応 六年 1497【妙法】 ○此年売買吉。秋も耕作吉。稗十分也。
明応 七年 1498【王代】 ○壬十月。此年八月廿日夜大雨・大風。草木折。 ○同廿四日、辰尅、天地震動シテ国所々損。金山クツレカゝミクツレ中山損。 明応 七年 1498 1月 元日 閏月十月也。【妙法】 ○正月元日より殊の外暖にて雪不降道吉。 明応 七年 1498 1月 6日【甲陽】 ●正月六日、信虎公誕生。 明応 七年 1498 6月11日【甲陽】 ○六月十一日、大地震。 明応 七年 1498 8月25日【妙法】 ○辰剋に大地震動て日本国中堂塔乃至諸家悉く頽れ落。 大海邊は皆々打浪に引れて伊豆浦へ悉く死失す。 明応 七年 1498 8月25日【年表】 ◎東海地方に大地震、浜名湖、外海とつながる。 明応 七年 1498 8月28日【妙法】 ○大雨、大風無限。 申剋当方の西海・長浜・大田和・大原悉く壁(びゃく) におされて人々死事大半に越えたり。 あしわた(足和田)小海の巌、皆流て白山となる。 明応 七年 1498【妙法】 ●武田親子、此年和睦し玉ふ也。 ○冬、雪さして不降。大飢饉無申計。
明応 八年 1499【妙法】 ○七大五小也。 明応 八年 1499 1月 2日【妙法】 ○正月二日、大地震する也。惣而正月大風吹也。 売買殊外高而春つまる事不及言に。大麦小麦共によし。 吉田上行寺上へ引るゝ也。 明応 八年 1499 7月 6日【妙法】 ◎七月六日、(比)叡山三塔九院悉く細川殿焼拂也。 明応 八年 1499 7月 6日【年表】 ◎延暦寺僧徒、足利義尹に応ずるにより、 細川政元これを攻め、根本中堂など焼く。 明応 八年 1499 11月【妙法】 ◎此年霜月、王、流されて三島へ付き玉ふ也。 早雲入道諫て、相州へ送賜也。 明応 八年 1499【甲陽】 ○挑戦より一切経渡る。
明応 九年 1500【王代】 ○此年迄三年震動ス。 ○甲州西八幡宮上葺。窪川豊前本願。 明応 九年 1500【妙法】 ○六大六小也。この年までも大地震不絶。 明応 九年 1500 4月20日【妙法】 ○吉田鳥居卯月廿日に立。 明応 九年 1500 5月18日【妙法】 ○大風吹。 明応 九年 1500 6月 4日【妙法】 ○大地動。上の午年大地震にも勝れたり。 惣而如何なる日も夜も動事不絶。更に無限。 ○此年富士導者参事無限。関東乱により須走へ皆導者付也。 明応 九年 1500 8月【妙法】 ○勧王様より当妙法寺を賜る也。御渡状共頂戴仕為後日示置。
明応 十年 1501 2月27日 ※栗原式部太輔、騎馬二百騎預之。
文亀 元年 1501 (改元、明応十年2月29日)【妙法】 ○八大五小也。 ○此年作毛草生は十年二十年にも無並吉。但し六月土用の内、夜昼大雨 ○降大水出て作り悉水に成る。此年改元。 ○此年大雨降共世間十分に吉。【妙法】
文亀 元年 1501 閏6月【長野】 ●北条早雲、甲斐攻略につき諏訪上社大祝諏訪頼満、松尾小笠原定基に協力を求める。
文亀 元年 1501 9月18日【妙法】 ◎九月十八日、従伊豆国早雲入道、甲州へ打入。 吉田城山小倉山随所に代を致て国中大勢に而巻門無弓矢して 皆他国へ勢衆十月三日夜散々迯て皆死。 ○極月小寒内にまむし雪中に出て人の足の辺り廻る事。 又蟇(蛙)飛廻 りて、寒につめられて死。余り不思議さに書置申候。
文亀 元年 1501 9月18日【山梨】 ◎北条早雲、都留郡に打入り、吉田の城山・小倉山に陣を構える。十月三日敗退。
文亀 二年 1502【妙法】 ○此年は世中凶悪風八月吹て耕作殊の外也。冬は雪不降。 ○浅間宮へ猿下て一両日森を遊行而失る。狐人に成りて人の家来と成。又狐人に喰付也。
文亀 二年 1502 6月20日【長野】 ●若狭国衆・百姓ら、苛政に反抗し守護武田元信の子を討つ。
文亀 二年 1502 7月【甲陽】 ◎七月将軍義高公名を義澄と改。
文亀 三年 1503【妙法】 ○此年、葛山孫四郎殿富士上方の梨木澤に而生害す。 ○八万薬師寺三月立ル、東坊良賢。【王代】
文亀 三年 1503 5月22日【妙法】 ○又此年常在寺日印様五月廿日死去。
文亀 三年 1503 8月30日【妙法】 ○八月卅日夜雪降て十分の世の中何も無うあいたり。
文亀 三年 1503 12月17日【妙法】 ○当海、十二月十七日より氷始て、 二月近く迄不解、海少もあかす厚さ一二尺に氷て、 人の往来及遊行する事無限。冬中日てり正月二月迄も照通す。冬中雪不降。 文亀 三年 1503【甲陽】 ○夏大旱。
文亀 四年 1504【妙法】 ○此年、始三月迄雪不降。世間殊の外つまる。 此年船津つゝの口を、小林尾張入道殿、 本主のふさぎ玉ふ所を取のけ玉へは花立のかけなとを掘出し玉ふ。 大く井水を引也。湖干あがる事無限此年年号改る也。
永正 元年 1504 (改元、2月30日)【妙法】 ○此年、富士山に六月七月両月に雪五度降る。 作毛ひえ皆損、大ひてり、うろの水を禰宜殿下りて氷をひらかれ申候か四五日不解。其日雨降る。 ○武州に鼠多はやり出て昼孕(もち)の女を喰殺而其處の時の食物を喰 猫を鼠皆々喰ころす。 ○此年大雪四尺降越後国より小堀関東へ向玉ふ。 十一十二の両月、武蔵国両上椙合戦駿河平に伊豆の国勢向て伊豆勢負る也。 経木を取て数す。四萬人打死する也。 ○此年冬寒き事不及言説此海少もあく處無し。大飢饉百分千分言説不及。 人馬死る事無限。売買米七十、粟六十、稗五十文、大豆六十文籾六十文。 永正 元年 1504 10月【甲陽】 ○飢饉。 ◎十月上杉顯定と上杉朝良合戦。
永正 二年 1505 9月16日【甲陽】 ◎傑山死去。
永正 二年 1505 9月16日【高野】 ●武田信昌が没する。
永正 三年 1506【妙法】 ○此年春は売買去年冬よりも尚高直也。秋作は悉く吉、但し春のつまりに秋吉けれ共物もつくらぬ者いよいよ明し春迄も貧也。 ○此年の半ばよりも年号替わるなり。 ○此年冬雪雪不降暖なる事先代にも加様成事無之湖不氷。
永正 三年 1506【甲陽】 ◎両上杉和睦。
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最終更新日
2021年04月23日 19時39分11秒
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