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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月26日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

永正 四年 1507 2月14日【山梨】

●武田信縄死に、子信虎相続。

○甲斐武田信縄没、子信直(信虎)嗣ぐ。【暦年】

永正 四年 1507 2月14日【甲陽】

○二月十四日、孚山死去。

◎六月廿四日、細川政元遭害。

永正 四年 1507 2月14日【一蓮】

●武田信昌の嫡男、甲斐守護武田信縄が没する。(墓、甲府市恵運院)

 

弥勒二年(私年号。永正 四年 1507)【妙法】

※此年、当国の守護殿五郎殿死去。

又御本寺鐘を舂米(つきよね)の岩見守より寄進する。

此人の母の三十三年のために六十六部の写経供養。

二月、門徒の衆中皆九字宛之頓写眼を驚。

 

永正 五年 1508【妙法】

○此年、世間富貴言説につくしかたし。一国二国ならず日本国中売買安し。

○此年、当在寺日運正月死去。

※此年、大雨頻にて而作毛言語同断悪し。

当山室の宮造取持、小林尾張入道殿諸国出て前代未聞の事也。

永正 五年 1508 10月 4日【妙法】

●此年、十月四日、武田八郎殿、同子息彌九郎殿珍宝丸打れさせ玉ふ也。

○此年、十月十日、日国坊常在寺へ移り住居す。

○此年、秋作悉く悪し。

永正 五年 1508 12月 5日【妙法】

○此年、極月五日国中にて合戦あり。都留郡人数負る也。

小山田彌太郎殿打事死。同心の打死無限、然は工藤殿、小山田平三殿韮山御出仕なり。

小笠原孫次郎死。

永正 五年 1508 7月【暦年】

◎義尹、征夷大将軍となる。

永正 五年 1508 10月 4日【甲陽】

※油川彦八郎と四郎生害。

永正 五年 1508 10月 4日【甲陽】

●武田信虎、叔父油川信恵を倒す。

永正 五年 1508 12月 5日【山梨】

●武田信虎、小山田弥太郎ら信恵の与党を敗死させる。

小山田平三らは、伊豆に流れて韮山に出仕する。

 

永正 六年 1509【妙法】

○此年は売買高し。秋作は吉。秋より当郡乱入以の外、

殊に川口を焼く、されども国勢引るゝ也。

○極月に下の検断殿打るゝ也。吉田の要書記打ちるゝ也。

○此年、当小室の上葺檜皮にて葺るゝ也。

○又極月十六日須走蓮長寺、日壽御死去。

永正 六年 1509【山梨】

●この年、信虎、河口宿に放火、小山田氏の将、下の検断と戦い、これを敗死させる。

永正 六年 1509 10月 4日【一蓮】

●甲斐守護武田信虎が不逞の叔父油川信恵を曽弥郷の勝山城に攻め、これを滅ぼす。

永正 六年 1509 10月23日【甲陽】

※小尾彌十郎、江(草)城を乗取。

 

永正 七年 1510【妙法】

○此年迄乱不及申に去年極月廿五日より大雪降深さ四尺、鹿死ぬ事云に不及。

○此春、中国中都留郡御和睦落付。

永正 七年 1510 3月12日【妙法】

○光長寺大坊京都より、三月十二日御下着有之。

○此郡の大麦小麦吉。

○此年管領越後にて長尾六郎に打れ玉ふ。

永正 七年 1510【山梨】

●この春、武田氏と小山田氏和睦する。

永正 七年 1510 8月 7日【甲陽】

○大地震。

○八月七日、夜寅時震動。天王寺クツレ石鳥居居損。河内藤井寺損。人多死。

 

永正 八年 1511【妙法】

○此年、正月地下侍共に喜事無限。浮世に口痺流行。

人民死事無限。然間彼口痺の鳥を造り送る。一日病て頓死する。

請人契約をして酒を飲む事無限。

○此年、長尾伊賀、此郡を武州へ通り威勢を取らるゝ也。

○此八月大原へ天狗共寄て三ひ時の聲を作る也。

村の人々皆舌すくみて物云事あたはす。

○又富士のかま岩燃える也。

○この年大風二三度吹て十分の富貴四分三分に成る。

○国々大水八月出て耕作損事無限言語同断也。

永正 八年 1511 8月【甲陽】

◎八月前将軍、源義澄江州岳山にて逝去。

永正 八年 1511 8月【王代】

○八幡御供所窪川豊後立。

○永正八年辛未八月八日夜亥尅、宮後大松ニ大風吹倒シテ□□。

永正 八年 1511 10月24日【妙法】

○未剋に当て、富士大石寺の御堂自火にて焼失。

前三日の間天上より、血流れて焼くと云々。不思議の奇怪也。

 

永正 九年 1512【妙法】

○去年より売買なし。銭をゑる故に、米八十文、小麦七十文売也。

○三月十八十九日雪雨日降積事四尺 通路悉とまる。

○売買無き故に世間大につまる。塩四十文つゝ、

ほし葉百文に四連六連売也、且紙一束を百五十文に賣也。

○此年、二月時正、立正寺にて七日御本寺聖人御弘通あり。

雨しけく而 当海いよいよ満る。

○又、卯月十九日雷大鳴る。

其日西剋に倉見法祐寺の大門なる大椙燃る事無限。是を驚く人々祈祷託宣する也。

○浅間大井は摩竭井と弓箭を取り大井まけ玉ふて如

此其しるしに燃と云也如何何様の物怪なり。

  《上記の項…『武田資料集』には》

○間大菩薩ハ摩竭菩薩ト弓箭ヲ取ル。

大菩薩マケ玉フテ如此、其シルシニ燃ト云也。如何様ノ物怪也。

永正 九年 1512【甲陽】

◎大内ノ介義船岡山の軍功を賞して従三位に叙す。

 

永正 十年 1513【妙法】

○此年、痳疹世間に流行事大半に過たり。

銭をゑる事無限。売買安し。賣人希也。

○此年、耕作何にても悪物一本も無之廿分出来す。

○此年、天下にたうもと云、大成瘡出て平愈する事良久。

其形謦は癩人のことし。食は達者なる人の様にすゝむ也。

○当年は富貴する事言語不及。銭を多くゑる間賣買殊の外に安し。

○此年、川内の穴山道義殿子息清五郎殿に打たれさせ玉ふ。

○米は九月迄二升五合也。能く買は三升も賣也。

○此年、光長寺旦方中坂を越申されゝ、馬六十九疋、人は百余人、

関所は大坊からくらせ玉ふてすくすくと透るなり。

永正 十年 1513 3月【甲陽】

◎三月、足利義尹於江州合戦敗軍。

 

永正十一年 1514【妙法】

○此年賣買悉く安し。米二升五合、大豆五升、粟同、小豆三升、稗八升、

賣買自在なれとも銭をゑる程に代つつまる諸事安し。

○世間暖なる事申不及。

○霜月、極月雪不降れとも一寸二寸よりは厚は不降。

○此年関東合戦乗坊極月打死云々處説也。

永正十一年 1514【甲陽】

◎一条前関白冬良薨す。

永正十一年 1514【王代】

○甲州東郡八幡宮ノ鳥居十二月十八日ニ立、カサ木ハ裂石ヨリ三年ニ下ス。

●武田左京大夫信虎御代河田に屋形。

 

永正十二年 1515【甲陽】

○此年、正月閏月有之。

○此年、迄も賣買去年のことく安し。銭をゑる事彌止、他国は代つかひよし。

永正十二年 1515  4月10日【甲陽】

○四月十日、積翠寺之客殿、柱立同五月廿四日不残柱立並棟上。

永正十二年 1515  6月14日【王代】

○六月十四日夜半より卯尅迄月食。

永正十二年 1515 10月12日【妙法】

○此年、十月十二日の夜より、雪降大雨と雪と同心に降に依て、

大地殊の外に氷て芋も掘り得ず。菜なとも一本も取る間も無し。

さし置に依て菜も徒らに、すてる芋も如此致候間中々言語道断飢饉と成也。

○此年は耕作、田畑栗稗惣て造る程の物は何も悪し。

飢饉す。寒事前々にも過たり。駿河朝比奈和泉殿、此年の十月病死畢。

○此年、岡の大坊、駿府に弘通所を御建立有之名を經王と號て、

此年夏中百日の間別当様壹人めされて御弘通あり。所願成就無障等云々。

永正十二年 1515 10月17日【妙法】

●此年当国、大井殿、屋形殿との合戦。十月七日申剋也。

屋形殿大勢といへども、彼城の廻りを不知間皆深田に馬を騎入て無出打死畢ぬ。

○其人数小山田大和守右衛文助殿、尾曾殿、飯富殿、

其外随分内々様二十騎計是大将分方々也。

其余は一二百人打死畢、其後駿河国より、甲州への口々を塞るゝ也。

重の調義可有之とも更に不見。

永正十二年 1515 10月17日【勝山】

●武田信虎が西郡大井庄の領主大井信達をその居城、椿城に攻めて反撃に遭い、

味方小山田大和守・今井右衛門佐をはじめ多くの将領をう。

●武田信虎、舅大井信達を甲斐上野城に攻撃して敗北する。【長野】

永正十二年 1515 11月16日【王代】

○十一月十六日ニ日(太陽)二ツ出。

永正十三年 1516【妙法】

○此年も春よりつまる事無限に、大麦高し。三升五合の賣買也。

○未だ大井殿と御屋形様の取合彌強盛也。駿河と此国取合未息。

○米は百文、栗賣買無、大豆六十、小豆七十文也。

自他国路次堅固にふさがり、未だあかす銭をゑる事彌。

○此年、七月十二日未剋震動致候、明る十三日迄九度震動す。

○此年、極月十六日巳剋西海右近と平八迄兄弟三人、大石與五郎殿も打るゝ也。

※去間宮内丞殿、同廿九日に出陣ある也。其後日々合戦而、地下は皆鵜ノ島にて越年す。

されとも日々の合戦に吉田の城を攻るに城方めてを取る、漸年も替る。

 

永正十三年 1516  7月【甲陽】

◎七月、北条早雲、三浦の城を攻取。三浦道寸討死。

永正十三年 1516  9月28日【甲陽】

●扇山破れ依之、信虎公黒林寺へ御引籠る。翌春御帰陣。

永正十三年 1516  9月28日【王代】

※於万力、九月廿八日合戦。駿河勢出、国中悉く焼。八幡山松本七覚焼亡。

※曾禰之毛沢陣取、勝山ヲキツキ。

永正十三年 1516 12月29日【長野】

●武田信虎の軍、甲斐吉田城を攻撃、ついで落とす。

 

永正十四年 1517  1月【妙法】

※此年、正月小林尾張入道殿、荒倉(新倉)出陣し玉ふ。

然間正月三日より城を攻る事強盛にて、終に正月十二日夜引申候。

去間先方ゆひに切り勝て吉田自他一和に定也。

○此年、極月十五日より三日雨にて前後雪降積り、巳上四尺五寸降る。

鳥獣自喰物なきに依て皆々餓死す。

言語道断深雪にて四方路次悉ふさがる。此年賣買は何にも吉。

永正十四年 1517  3月 2日【王代】

※三月二日、引返無数ニテ。

永正十四年 1517  3月【王代】

○甲州大井ニ三月万部在。同三月、一条ニ万部経アリ。

●戊寅ノ年、甲府始立。

永正十四年 1517  7月14日【甲陽】

○七月十四日、暴雨洪水。

●甲斐武田信虎の兵、今川氏親の属城勝山城を攻める。

氏親、連歌師宗長をして信虎と和を講じさせる。

《参考》

※若狭守護武田元信の武将逸見河内守、元信の背く。【戦国】

※上総真理谷武田信勝、足利義明を奉じて同国子弓城に原行朝を討ち、これを降す。

【戦国】

 

永正十五年 1518  5月【妙法】

※此年の五月、駿河と甲州都留郡和睦也。調法者内野渡辺式部丞、

他国の判者人は永池九郎左衛門方同禍(福)島道宗入道云々

永正十五年 1518  6月 1日【妙法】

○此年六月、朔日富士山禅定に嵐以の外に至て導者十三人忽に死す。

○其内に内院より大なる熊出て導者三人を喰殺す。是は熊にては無し。

 大鬼神と見る人有之。余不思議さに書付て為物語置申候。

永正十五年 1518  6月 2日【王代】

●六月二日、甲府初立。信虎御代ニ庚申日也。

永正十五年 1518  7月13日【妙法】

○此年、七月十三日、大風吹て作毛悉損す。諸作悪し。

○其年の八月廿六日大霜降て明る日迄消えず。世間つまる事無限。

秋の賣買は米六十七文也。当国山里の米荷を山家不通米の賣買此郡一粒も無之。

耕作何も實不入わらびを掘る也。惣而此年掘りとらす明る五月迄ほるなり。

 

永正十五年 1518【甲陽】

○天下飢饉餓死。

 






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最終更新日  2021年04月23日 19時37分56秒
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