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2019年04月26日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

武田信虎、石和から甲府へ 永正十六年 1519

 

永正十六年 1519【妙法】

○此年も銭をゑる也、此年惣而一国二国ならず、日本国飢饉して諸国及餓死也。

●当国の内浦の兵庫殿、屋形様と取合玉ふへきに定り。今日の明日のと卯月迄も不息。

○賣買は米百文、粟八十、大豆七十、籾六十五文也。其余は更に賣買一粒も無之。

就中雑事一本も無之。冬より富士郡へ往還而芋のからを買越て喰候。

此秋は作吉粟賣買四升、大豆四升、小豆三升、惣而国中富する。

●甲州府中一国大人様を集り居結れ、上様も極月移り御座して御台様も極月御移。

○此年、の霜月内野寺を引て上行寺御立。

永正十六年 1519【王代】

○四月十六日寅時初。

〔註〕信虎、甲府へ

永正十六年 1519  5月15日【甲陽】

●同月十五日、新府中御鍬立初む。

永正十六年 1519  5月16日【甲陽】

●同、十六日、信虎公御見分。

永正十六年 1519  5月27日【甲陽】

○至小田原、八月北条早雲死す。

永正十六年 1519  8月15日【武川】

●武田信虎が府中を石和郷川田より、

石水寺郷躑躅ケ崎に移そうとし、是の日鍬立の式をを行なう。

永正十六年 1519 12月20日【甲陽】

●信虎公府中え御屋移り。

永正十六年 1519 12月20日【武川】

●かねて普請を督励していた躑躅ケ崎屋形が竣工し、

信虎は婦人大井氏とこれに移って、甲府と名づけ、

ついでに諸将に屋敷を与えて住まわせる。

永正十六年 1519【長野】

●佐久郡大井氏の将兵村上成頼(しげより)、村上氏の援軍を得て甲斐に攻め込む。

この頃村上氏、小県郡の勢力圏を拡大する。

 

永正十七年 1520【甲陽】

○三月十八日、三沢の宗香、於甲府萬部の経初る。

○三月晦日、己刻宗香夢(本地・虚空・永神)蔵。

○六月六日、今諏訪合戦従是逸見西郡滅却。

○六月晦日、積翠寺丸山を御城に被取立、普請初る。

●六月朔日、信虎公、丸山の城に御登り香(積か)翠寺に被下十五日、七月節。

永正十七年 1520【甲陽】

○此年も賣買吉。粟四斗、大豆四斗、小豆二斗五合に夏迄賣買して、

○此年の三月府中にて以上意萬部法華経よませ玉ふ。

○又当郡猿橋三月中に、小山田殿引立かけ玉ふ也。

○此年吉田の上行寺の堂供養三月也。

法則老僧説道は富士の化一位阿闍梨多参て説法を読誦する也。

※此年五月、栗原殿大将として皆々屋形をさみし奉て一家国人引退玉ふ。

※同六月八日に東郡の内みやけ塚にて軍あり。

上意の足衆切勝て、其日に栗原殿の城をまく。此年閏六月の事也。

○其後八月十三日の夜降始十四日、十五日、十六日、十七日迄降続作毛悉く損るなり。

●此年夏当国の大炒殿を屋形より責め結玉へは負て、

大炒殿城は降参めさるゝ也。浦の殿も屋形様へ降参ある也。

○霜月、大雪降、極月四尺降る。

●此年、駿河勢数萬人立て甲州へ合戦有之。駿河衆悉切負て、福島一門皆々打死。

甲州へ取るしるし数百騎。霜月廿三日未剋よりして夜責し玉ふ。散々に逃る事無限。

永正十七年 1520  6月10日【王代】

●六月十日、此年、逸見・大井・栗原一族悉一家同心ニ、

信虎ニ弓引、板垣、曽禰・羽州三州味方。一日ニ三方ノ合戦。

屋形方切勝。御敵秩父引籠和談シテ帰参、曾禰大学助討死六月十日。

●甲斐武田信虎、大井信達を同国大井に攻め、これを降す。【戦国】

○永正十七年六月廿八日、甲申、

高野山飛行ノ三鈷ヲ金堂上葺ノ供養ニ被出進儀可タラ供行ルゝ。

識衆六十供卯尅ヨリ被奉金堂移入至巳螺三時奉拝、

又第三日ノ巳貝ニ金堂ヘ移、四ケ院行人警固ニ被為拝、御影堂へ如本奉納。

 

 

永正十八年 1521  2月18日【妙法】

●此年、八月十八日、武田殿、大原船津小林宮内丞殿へ御出有之。

明る日中津森へ御下候。

永正十八年 1521  7月15日【妙法】

 此年七月十五日、武田八郎殿、駿河より甲斐へ御帰国有之。

●当国屋形様の御意て御帰候。

大永 元年 1521  8月28日【妙法】(8月23日改元)

※又川内へ、八月廿八日、惣勢立て鎚つき其日有之富士勢負玉ふなり。

関東も乗房と川越殿取合不息向陣悉丈夫の手負るなり。乗舟を多く取らるゝ也。

永正十八年 1521【勝山】

●この夏、信虎は逸見多麻庄の小倉浦城(中尾城)の今井信元を攻め降す。

 

大永 元年 1521 11月23日【長野】

●武田信虎、駿河守護今川氏親と甲斐河内などで戦う。

《信玄の生い立ち。【甲陽軍艦】大永元年》

引用資料、『甲陽軍艦』吉田豊氏著。昭和四十六年。徳間書店発行。

〔解題〕

 信玄が誕生した大永元年(1522)のころ、足利幕府の権威をとみに衰え、

実力本位の戦国大名時代を迎える騒乱が全国をおおっていた。

信玄の父信虎は甲斐一国の鎮定に成功しつつあったが、

駿河から侵入してきた福島の大軍に甲府近郊まで迫られ、未曾有に危機に立たされていた。

 

●信玄素生之事(品第十八)

 夫(それ)信玄公、稚(わか)き時の御名を勝千代と申す。

子細は、御父、信虎公、二十八歳の時、駿河くしまといふ武士、

今川殿を、かろしめ、結局甲州を取て、己が国に仕らんとて、

遠駿の人数(にんじゅ)を、引きぐして、甲州飯田河原迄来り、

しかも六十五日あまり、陣をはり居る。其時御一家の衆、

尽く身構へをして、武田御家、既に滅却せんと仕る所に、

信虎公の家老、萩原常陸守と申す、大剛の武士、武略をもって、

信虎公勝利を得給ふ。

敵の大将くしまを討取り給ふたる其日の其時誕生有る故、

勝千代殿と、信玄公稚名(わかな)をけ申す。

即ち其時の合戦は勝千代殿と合戦に仕ると、武田信虎公家老の沙汰なり。

勝千代殿、誕生前に、種々の不思議、信州諏訪明神より、告げ来ると云々。

《註》

 大永元年(1521)遠江土方城主福島兵庫頭正成(久島とも呼ぶ)が

一万五千の軍勢をひきい、甲州に進攻、甲府市外にまで迫った。

武田家最大の危機である。

信虎は、懐妊中の夫人(大井氏)を市北郊石水寺(現積翠寺)要害山の山城に移し、

六十余日の対戦の末、十一月二十三日、飯田河原での合戦でようやく勝利をおさめた。

 

大永 三年 1523  6月10日【長野】

●甲斐の武田信虎、善光寺に参詣する。

 

大永 四年 1524  2月11日【長野】

●武田信虎、上杉憲房と甲斐猿橋で戦う。

●武田信虎、甲斐猿橋に陣す。関東管領上杉憲房八十里に陣し、これと戦う。【戦国】

 

大永 六年 1526  6月19日【長野】

●将軍足利義晴、甲斐武田信虎を上洛させるために、

この日関東管領上杉憲政、諏訪上社諏訪頼重・木曾氏らに、信虎との和解を命じる。

大永 六年 1526  7月30日【長野】

●武田信虎の軍、北条氏綱の軍を駿河梨木平に破る。

 

大永 七年 1527  6月 3日【長野】

●佐久郡伴野貞慶(さだよし)、武田信虎に援軍を請う。

この日信虎、貞慶と敵諸将の和睦成立で出陣をやめる。

●七月八日、武田信虎、また善光寺に参詣する。

 

享禄 元年 1528  8月30日【長野】

●甲斐武田信虎、諏訪郡境に攻め入り、諏訪頼満。

頼隆父子の軍に神戸(ごうど)・境川で敗れる。

 

享禄 二年 1529【甲陽】

○正月小。

享禄 二年 1529【王代】

○享禄二年迄男山ハ千三百四十年也。

享禄 二年 1529【妙法】

○此年、春は賣買安し。殊更、大麦、小麦吉。大麦五升、小麦二升一盃賣申候。

○秋は何も十分能御座候。

○此年、国中より路次ふさがり申候。

享禄 二年 1529  6月20日

○此年、中津森御大方様、六月廿日に遠州に御越候而、姉と御対面御座候。

色々の奔走と聞申去間来る。

○十月十一日に当国へ御帰候。

御大方の御迎に出近習百人金作刀一様に衣類茜紬一様百人富士川の端迄御迎えに出たり、

御帰には和泉殿に一夜入道殿に一夜倉見の新九郎殿に一夜逗流候而中津森へ御帰候。

○霜月十五日路あき候。其日棟引参候。

○此年、の冬世中十分に吉。去共坂塞り候間、米二升五合。

大原にては三升拾文さしに賣買申候。大豆五斗。小豆三斗五合。稗は壹斗賣買、

代一向無御座候去間銭渇飢(かちけ)と申候。

○此年、二月十日、新屋薩摩殿打るゝ也。

○此年、水上の長老しほの山(塩山)への御往候。

 

享禄 三年 1530  正月 7日

●此年、正月七日越中守同国中の一家国人、猿橋に御陣なされ候。

○此年の春は何も賣買安し。米三升、粟六升、大豆六升、小麦二升二盃賣申候。

○此年の三月、□(さる/馬に留)ケ馬場大日堂焼る。同大日も焼玉ふ。

○此年同月、中津森の御所焼る。御前のかうしも焼。

○此年春、弓稽古する事無限。

○米倉橋此年三月に掛申候。

※卯月廿三日、八坪坂にて越中殿と氏綱合戦あり。打負て吉田衆致打死候。

○此年、夏世中吉六月、米二斗五合、大豆五升、小豆三升、大豆九斗、小麦三升、賣買申候。

○此年七八の両月諸国諸神を鹿島に人々送申事無限。人の悩む事不知数を大概死也。

※関東より川越殿御重寶にて乗房の上様を奪取申て武田殿の御乳なほし申候。

○此年、某本寺へ参詣申候而。明る年二月迄致住山候。

○此年、伊東へ参詣申候。

享禄 三年 1530【甲陽】

○正月大。

享禄 三年 1530【王代】

○十月七日ヨリ八幡ノ大杉十三日モヘル(燃える)。

○十月十九日、ミコシ全シ。白山立。

○卯年四月六日三社出来、祝スル。






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最終更新日  2021年04月23日 19時37分24秒
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