山梨県歴史文学館　山口素堂とともに

智識学行　芭蕪雑談　正岡子規著　一部加筆

　平民的の事業必ずしも貴重ならず、

多数の信仰必ずしも真成の価値を表する者に非ずと雖も、

苟（いやしく）も万人の崇拝を受け百歳の名誉を残す所以の者を尋ぬれば、

凡俗に異なり尋常に超ゆるの技能無くんばあらざるなり。

況んや多数の信仰はあながちに匹夫匹婦愚痴蒙昧の群衆に非ずして、

其の間幾何（イクバク）の大人君子を包含するをや。

顔子の徳、子貢の智、子路の勇、皆他人の企てに及ばざる所なり。

然れども三人を一門下に集めて能く之を薫陶し之を啓発し、

之を叱咤し綽々（ゆるゆる）として余裕ある者は孔仲尼其の人ならずや。

蕉門に英俊の弟子多き、恰も十哲七二子の孔門に於けるが如し。

其角、嵐雪の豪放、杉風、去来の老樸（はく）、

許六、支考の剛腹、野波、丈草の敏才、

能く此等の異臭味を包含して元禄俳諧の牛耳を執りたる者は、

芭蕉が智徳兼備の一大偉人たるを証するに餘りあり。

此の人々固より無学無識の凡俗にあらねば、

芭蕉の簀（さく）を易うると同時に各々旗幟を樹（うえ）て

門戸を張って互に相下らざるの勢を成せり。

其角は江戸座を創め、

嵐雪は雪中庵を起こし、

支考は美濃派を開き、

各々之に応じて起こる者亦少からず。

其の他門流多からずと雖も、

暗に一地方に俳権を握る者江戸に杉風、桃隣あり、

伊勢に涼菟、乙由あり、

上国に去来、丈草ありて相頏せり。

後世に及びては門派の軋轢愈々甚だしく、

甲派は乙派を罵り丙流は丁流を排し、

各自家の改組を称揚し他家の開祖を擠（お）し、

以て自ら高うせんとのみ勉めたり。

然れども其の芭蕉を推して唯一の本尊と為すに至りては、

衆ロー聲に出づるが如く、浄土と法華と互に仇敵視するに拘わらず、

猶お本尊釈迦牟尼佛の神聖は毫も之を汚損せざるに異ならず。

是れ其の徳の博きこと天日の無偏無私なるが如く、

其の量の大なること大海の能容能灌なるが如きによらずんばあらざるなり。

許六の剛腹不遜なる、同門の弟子を見ること猶三尺の児童の如し。

然れども蕉風の神髄は我之を得たりと誇言して猶お芭蕉に尊敬を表したり。

支考の巧才術智なる書を著わし説を述べ以て能く堅白同異の辨を為し、

以て能く博覧強記の能を示すに足る。

然れども其の説く所一言一句と雖も、之を芭蕉の遺教に帰せざるはなし。

甚だしきは芭蕉の教えなりと称して幾多の文章を偽作し、

譏（そし）りを後世に取る事甚だ講師の所為たるを免れずと雖も、

翻って其の裏面を見れば、

儘く是れ芭蕉の学才と性行とに対する名誉の表彰ならずんばあらず。