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2019年04月29日
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カテゴリ:甲斐武田資料室

天正十年(1582)武田滅亡(参考資料 『東照宮(家康)実記』)

 武田勝頼・織田信長・徳川家康

家康 近年武田とは、結び触れたる中ながら勝の振舞いを疎み、密かに織田右府に下り甲州の案せんといへば。信長大に喜ばれ、その身七万餘兵にて伊奈口より向われる。信長の子、三位中將信忠卿は五万餘兵にて木曾口より向うと聞えければ、君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口より向はせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。
かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は、みな城を捨て甲斐の國へ迯歸る。   
家康の御勢は二月十八日松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へ至る。
信長は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには、國中の犬猫までも斬り捨てよとの軍令なりしが。こなたはもとより仁大度の御計らいにて。依田三枝などいへる降參の者等は。しろしめす國の山林に密かに身を潜め時を待つベシとて。内々惠み賑はしたまへり。
穴山陸奥入道梅雪は武田家の一門なりしが。是も勝を怨むる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地藏堂に參り君に對面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。
勝は梅雪・典廐・逍遙軒などいへる一門親戚にも思い離たれ。宗徒の家の子どもにも叛かれて。新府古府の住家をもあかれ出。天目山の麓田野といふ所まで彷徨い、その子太信勝と共に討たれたり。  
家康の御勢は蒲原興津より駿州井出の口をへ給ひ。甲州西郡萬座にすゝみ給へば。梅雪が案内し先鋒の諸將富士の麓八代郡文殊堂市川口より押し入たり。
こゝに成吉右衛門正一と云えるは、さきに當家を退し時甲州に在りしかば。武州士どもと親しい故に、今度仰を受けてかの輩を募り招きければ、もとより御仁愛は隣國までも及びし故、折井・米倉(武川衆)など云える者一番に歸順せり。
信忠卿古府へ着陣せられければ。家康もその所におはしまして對面したまい、又諏訪へ赴き給ふ。

信長は十四日波合にて勝父子の首を實撿せらる。

その時汝が父信玄は每度我等に難題を言いかけ困らせたり。首に成てなり共に上洛したと云いしと聞しが、汝父が志を継ぎて上洛せよ。我も跡より昇るべしと罵られ、頓て其首共を市川口の御陣へ送り見せ給ふ。 
家康は勝の首を白木の臺にのせ上段に直され。厚く禮を施し給ひ。今日かゝる姿にて對面せんとは思いもよらざりしを。若氣にて數代の家國を失はれし事の笑止さよ、とて御淚を浮かべ給へば。甲斐の國人どもかくと聞傳て。はやこの君ならずばと懐き慕い奉る。

信長は武田の舊臣ども上下の分かちなく。一々探し出して誅せらる。

家康は、かの者共生殘りて餓死せんも愛おしき事と憐れみ給ひ、甲信の間に名を得たる者をば、悉く駿遠の地に招きはごくませられ。又勝父子はじめその最期まで附從ひつる男女の亡骸共。田野の草村に算を亂して鳥獸の啄にまかせたるを、武田が世々の菩提所惠林寺も、織田家をはゞかりてとり治めんともせず。  
信長さすがにさるものゝ骸を露霜にさらさんは情なきに似たりとて。田野より四里へだゝりし中山の廣嚴院といふ山寺の僧に仰せて、その屍ども懇に葬らしめ。其所に一寺をいとなみ天童山景院とて寺料までよせ給ふ。これを見聞する遠近のもの。織田殿の暴政とは天淵の違かなとて感じ仰がざる者なかりしとぞ。
十九日には信長父子軍功の諸將士に勸賞行はるゝとて。川殿今度神速に駿州の城々責取給ふ。その功輕からずとて。駿河一國進らせらる。(烈祖織田殿に對し。今川氏眞は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏眞いま松に寓居すれば。駿河を氏眞にあたへかの家再興せしめんかと仰ければ。
信長きかれ。何の能も用もなき氏眞にあたへ給はんならば。我にかへしたまへとて氣色以の外なれば。やむ事を得ず御みづからの御領となされしといふ。)
梅雪入道も君に降りし事なればとて。本領の外に巨摩一郡をそへ與へ。永く川殿の旗下たるべしとて屬せらる。

さて信長國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。かへさに駿河路をへて富士一覽あるべしとの事なり。そのあたりは家康しろしめす所なるがゆへに、其道すがらの大石を退け、大木を切り払い、道橋をおさめられ。旅舘茶亭を營み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛大政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覽せまほしと宣ひしに。右府我さへ川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曾路より歸洛ありしとぞ。

(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて近衛。おのれは木曾路をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ。)

卯月のはじめに信長は甲斐八代郡姥口より富士の根方を分いられ、阿難迦葉坂をへて上野が原井出の邊にて富士を見給ひ。昔鎌倉の右大將家狩倉の古跡などまでたづね、大宮の旅舘にわたらせられしかば。家康こゝに侍迎へて饗し給ふ。道道の御設ども御心をつくされしを。右府あまたゝび感謝し給ひ。一文字の刀。吉光の脇指。龍馬三疋進らせらる。

日をへて富士安部川をわたり田中の城に泊られ、また大井川天龍川を越て松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも祿あまたかづけらる。松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあまり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東國征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。ことごとくその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次にも眞光の刀にこがね二百兩そへて賜はりぬ。

 
天正十年五月、家康は信長の居城近江の安土にわたらせたまへば、穴山梅雪も従い奉る。信長おもたゞしき設ありて幸若の舞申樂など催し饗せられ、自らの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。信長やがて京へのぼらるれば、家康にも京堺邊まで遊覽あるべしとて、長谷川竹丸(後に藤五秀一といふ。)といへる扈從を案にそへられ。京にては茶屋といへるが家(茶屋四次。本氏は中島といふ。世々豪富之。)を御旗舘となさるべしとて。萬に二なく沙汰せらるれば。家康は先立て都にのぼらせ給ひ和泉の堺浦までおはしけるが、今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり信長父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せとて、御供にしたがひし茶屋をば先にかへさる。 
又六月二日の早朝かさねて本多平八忠勝を御使として。今日御歸洛あるべき旨を信長に告げさせ給ふ。

家康も引つゞき堺浦を打立給へば、忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河の交野枚方邊まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て、追かけかけ來る者を見ればかの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、世は早これまでにて候。今曉明智日向が叛逆し。織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ中將殿も御生害と承りぬ。此事告申さんため參候といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを、君遙に御覽じそのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。御道の案に參りし竹丸を近くめし。

我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬を並べて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。家康年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ、田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば、君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび殿の御案に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御歸國ありて光秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。

穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。
よて後に光秀も。討ずしてかなはざる川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、命の拙さよとて後悔せしといへり。)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立道案せ、茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市より案内いにとて吉川といふ者を進らせ。





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最終更新日  2021年04月23日 05時25分26秒
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