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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月01日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室


芭蕉と甲斐

 

県内各方面には芭蕉の句碑が各地の宗匠だった人たちにより林立するが、芭蕉がその地で詠んだ句と確認できるものは殆どない。句碑は芭蕉門を名乗り芭蕉を崇め奉る事で、宗匠としての地位を維持・誇示する為の方が圧倒的に多いと思われる。

さて本題の芭蕉と甲斐についてであるが、県内には数多くの芭蕉の句碑や伝記が残り、その中で最も真実性があるのが、天和三年(1683)の芭蕉の甲斐谷村流寓である。通説では芭蕉は二度甲斐に入っているが、その時期や内容については諸説ありいまだに定まらない。芭蕉の書簡では、芭蕉の甲斐入りは数度に及ぶ事も考えられ、死去した後の元禄七年以後も甲斐を訪れる考えがあった事が伝えられている。

 史実も定かでない中で都留市は多くの芭蕉遺蹟(?)を紹介し、芭蕉の世話をしたとされる、秋元家の国家老高山傳右衛門(俳号、麋塒)が芭蕉の世話をしたとする説を定説化するためのものが多く、史料の曖昧さを等閑にしている感が強い。都留市はどんな資料を以て定説化し、施設まで造ったのであろうか。ここで資料を再確認してみたい。

 

一、芭蕉の甲斐入り、天和三年

 

 松尾芭蕉の谷村流寓については未だに諸説があり確定されていないが、これに関係した研究書には、明治三年、大虫の稿本『芭蕉年譜稿本』それに勝峯晋風氏の『芭蕉の甲州吟行と高山麋塒(びじ)の研究』、近いところでは小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』や赤堀文吉氏『天和三年の芭蕉と甲州』(都留高等学校・昭和四十三年度版)らが見受けられる。研究者の中には想像を逞しくして自説を織り交ぜて定説化を急いで居る人もいる。

 

 芭蕉の甲斐入りの概要は次のようである。

 

一、天和二年(1682)の江戸大火の後、天和三年正月頃から五月頃まで、甲斐谷村秋元藩の国家老の高山傳右衛門の世話で甲斐谷村に来て暫く静養したと云うもの。

二、貞享元年(1684)から二年にかけて俳諧行脚、

『野晒し紀行』の帰り芭蕉は再び甲斐に入った。

 

 どの資料も事実のようであるが、その足跡には諸説が生まれ、何が正しいかは混乱するばかりである。こうしたことは、歴史にはよく見られ、決して珍しい事ではない。これは当該年時の確かな資料が無い事に起因する。

 

芭蕉と周辺の動向 天和二年~三年

 

 最初に天和二年~三年の事について考察してみたい。天和二年(1682)に冬十二月、芭蕉庵は焼失したというが、最も近い年代で芭蕉の優秀な高弟、宝井其角の『芭蕉翁終焉記』の記述さえ焼失年については誤りとされている。(註…宝井其角(蕉門十哲の一人・山口素堂とも漢学を始め深い関わりがある)

 

 江戸時代市中の火事は頻繁に起こり、調べて見れば枚挙に暇が無いし、芭蕉の動向も天和三年それに天和四年の春頃までは不詳なのであり、芭蕉が甲斐谷村に流遇したと確説に近くなったのは勝峯晋風氏の『芭蕉の甲斐吟行と高山麋塒』の次の記述にあると思われる。

 

〔振袖火事と芭蕉の動向〕

 

 天和二年師走の振袖火事は、突如芭蕉庵包んで一瞬の裡に拝燼とした。其角の「芭蕉翁終焉記」(枯尾花  所載)は最も正確な芭蕉傳の第一文献であるが、「天和二年の冬深川の草庵急火にかこまれ」て、芭蕉は「潮にひたり」岸に舫ふ「苫をかづきて、烟のうちに生のびけん」と叙する九死に一生を迯れた。「爰に如火宅の變を悟り」て落延び、「無所住の心を發して行く所を定めず」流竄した。「其次の年、夏半に甲斐が根に暮らし」と述べるから、天和三年の夏は甲斐の国で暮らした譯である。其の「甲斐が根」は通説の初雁村(成美及び湖中説)よりは、「富士の雪みつれなければ」の文に徴して、もっと岳麓地方であらねばならぬ。郡内の城を擁する谷村は秋元藩の麋塒が、国詰の邸を構へたので、芭蕉はその谷村に客寓した新説を提出する。江戸から二日路の猿橋を通って、初雁村(今の初狩)立寄ったかは知れない。こゝに寄宿したのではない。

 

 秋元家の谷村城の地図によれば、高山傳右衛門の家は特別な位置にはなく、(註…地図参照)城を囲むように、正面には高山五兵衛の屋敷があり、右には安中大兵衛・高山源五郎の屋敷、その間の町屋に囲まれた通りを出て、土田見徳の屋敷があり、その隣が高山傳右衛門の屋敷である。地図は寛永十年から宝永元年までの絵図とされているので、家屋敷は秋元家が武州川越に移封する末年のものと思われる。

 

 

〔其角の『芭蕉翁終焉記』〕

 

 諸所の大御所のすべてが、其角の年度の記載を否定している。其角ほどの人間がそれほど遠くない事象を間違えて記載するとは信じがたい。

 また甲斐出身とされる素堂とのことについては全く触れていない。素堂ほどの人物であれば、救いの手を出した筈である。また同年には高山麋塒(秋山但馬守の家老 高山伝右衛門)の但馬守の屋敷も焼失している。数多く読まれた連歌も、江戸でのことで、また前年には百姓一揆が起こり、多くの人が処刑されている。そんな中で麋塒が同道して甲斐谷村に行ったことはあり得ないのである。不確かな個所を除いて定説化する風潮はいただけない。其角の『芭蕉翁終焉記』は芭蕉の亡くなった年の冬に書されたもので、元文を筆写した折の間違いである可能性も窺える。一考を要す。

 

 其角の『芭蕉翁終焉記』(『枯尾花』上巻所集。元禄七年十二月刊行)によると、

 

「(前文略)天和三年(諸書には二年の間違いとある)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかつぎて、煙のうちに生きのびん。是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り、無所性の心發して、其次の年夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪みつれなればと、それより三更月下入ル無我 といひけん。昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて焼原に舊庵を結びしばしも心とゞまる詠にもとて一株の芭蕉を植たり。云々」

 

〔高山傳右衛門と谷村藩(秋元但馬守)〕

 

 天和二年(1682)の火事は十一月二十八日、巳の刻牛込川田窪竹町より出火し、芝札の辻に至る。

 

 とあり、この火事の後、芭蕉は一時所在不詳となる。

 

 其角の『芭蕉翁終焉記』は火事の起きた年時については天和三年と記してあり、多くの研究者は天和二年の間違いと指摘されているが、芭蕉の高弟であり、『枯尾花』は芭蕉の「追善集」であり、当時の門弟や俳人達の記憶も十二年前の事で、仮に其角の記憶違いがあったとしても編集時に正されているはずである。

 この頃の谷村の城主は秋元但馬守喬朝で寺社奉行から若年寄に昇進した。(小林氏著本)天和二年には大手辰ノ口松平因幡守の屋敷を賜わるが、天和二年の火事で類焼する(小林氏著本・岡谷繁実輯)

〔余談〕

この秋元但馬守に山口素堂は蚊足(和田源助)を口入れしている。(『風律こばなし』)蚊足は書・畫が著名であり、芭蕉歿後、芭蕉像を描き庵に置き人々が「まるで芭蕉が生きて居る様だ」と評判になったと云う逸話の持ち主で、又、その画像に素堂の賛があるものも見られる。蚊足が秋元家に召し抱えられた当時の知行は御番方二百石であった。蚊足と芭蕉の交際は古く芭蕉の最初の選集『貝おほひ』にも名が見える。

 天和三年(1683)九月に素堂の呼びかけで(『芭蕉庵再建勧化簿』)芭蕉庵の再建が成る。この素堂翁の『勧化簿』の真蹟を所持して居た上州館林松倉九皐は嵐蘭の姪孫であり松倉家は祖父が嵐蘭(蕉門十哲の一人)の兄弟で、その子の右馬助正興の時秋元家に仕へ、累進して家老と成る云々。(勝峯氏)嵐蘭と素堂の交遊も長年にわたった節があり、そうした資料もあるがここでは提出は避ける。

 この様な背景のなかで、芭蕉は秋元家の家老高山傳右衛門繁文(俳号…麋塒)を頼って甲斐谷村に流寓したとの著書が多く見える。しかしその事実を伝える歴史資料は曖昧であり、現在も諸説があり確定して居る訳ではない。後世書されたものにはその年時を示す資料の出が不明で、著者の思い込みが強く感じられるものが多い。






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最終更新日  2021年04月23日 04時53分10秒
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