『枯尾花』上巻所集。元禄七年十二月刊行)によると、
「(前文略)天和三年(諸書には二年の間違いとある)の冬、深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかつぎて、煙のうちに生きのびん。是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の變を悟り、無所性の心發して、其次の年夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪みつれなればと、それより三更月下入ル無我 といひけん。昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて焼原に舊庵を結びしばしも心とゞまる詠にもとて一株の芭蕉を植たり。云々」
〔高山傳右衛門と谷村藩(秋元但馬守)〕
天和二年(1682)の火事は十一月二十八日、巳の刻牛込川田窪竹町より出火し、芝札の辻に至る。
とあり、この火事の後、芭蕉は一時所在不詳となる。
其角の『芭蕉翁終焉記』は火事の起きた年時については天和三年と記してあり、多くの研究者は天和二年の間違いと指摘されているが、芭蕉の高弟であり、『枯尾花』は芭蕉の「追善集」であり、当時の門弟や俳人達の記憶も十二年前の事で、仮に其角の記憶違いがあったとしても編集時に正されているはずである。
この頃の谷村の城主は秋元但馬守喬朝で寺社奉行から若年寄に昇進した。(小林氏著本)天和二年には大手辰ノ口松平因幡守の屋敷を賜わるが、天和二年の火事で類焼する(小林氏著本・岡谷繁実輯)
〔余談〕
この秋元但馬守に山口素堂は蚊足(和田源助)を口入れしている。(『風律こばなし』)蚊足は書・畫が著名であり、芭蕉歿後、芭蕉像を描き庵に置き人々が「まるで芭蕉が生きて居る様だ」と評判になったと云う逸話の持ち主で、又、その画像に素堂の賛があるものも見られる。蚊足が秋元家に召し抱えられた当時の知行は御番方二百石であった。蚊足と芭蕉の交際は古く芭蕉の最初の選集『貝おほひ』にも名が見える。
天和三年(1683)九月に素堂の呼びかけで(『芭蕉庵再建勧化簿』)芭蕉庵の再建が成る。この素堂翁の『勧化簿』の真蹟を所持して居た上州館林松倉九皐は嵐蘭の姪孫であり松倉家は祖父が嵐蘭(蕉門十哲の一人)の兄弟で、その子の右馬助正興の時秋元家に仕へ、累進して家老と成る云々。(勝峯氏)嵐蘭と素堂の交遊も長年にわたった節があり、そうした資料もあるがここでは提出は避ける。
この様な背景のなかで、芭蕉は秋元家の家老高山傳右衛門繁文(俳号…麋塒)を頼って甲斐谷村に流寓したとの著書が多く見える。しかしその事実を伝える歴史資料は曖昧であり、現在も諸説があり確定して居る訳ではない。後世書されたものにはその年時を示す資料の出が不明で、著者の思い込みが強く感じられるものが多い。
〔都留高校『研究紀要』赤堀文吉氏『天和三年の芭蕉と甲州』〕
ここに昭和四十三年の都留高校の『研究紀要』があるがその中に赤堀文吉氏の労著『天和三年の芭蕉と甲州』と云う論文がある。それによると、
☆『随斎諧話』(夏目成美著。文政二年・1819刊)
芭蕉深川の庵池魚の災にかかりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平といふものあるじとす。六祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法を深く信じて、仏頂和尚に参学す。彼のもの一文字も知らず。故に人呼で六祖と名づけたり。ばせをも又かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて宿られしとみえり又、
☆『奥の細道管菰抄』(蓑笠庵梨一著。安永七年・1778刊)
此時仏頂和尚甲州にあり。祖師は六祖五平を主とすと一書に見えたり。六祖五平は高山氏にて秋元家の家老也。幼名五兵衛、後主税と言は通称にて、今も猶しかり。六祖の異名は仏頂和尚の印可を得しより、其徒にての賞名也。祖師と同弟なれば寄宿せられし也。今高山氏に祖師の筆蹟多し。米櫃の横にさへ落書せられしもの残れり。
☆『芭蕉翁略傳』(幻窓湖中著・弘化二年・1845)の一説に、
甲州郡内谷村の初雁村に久敷足をとどめられし事あり。初雁村之等々力山万福寺と言う寺に翁の書れしもの多くあり。又初雁村に杉風(鯉屋・芭蕉の門人・友人・伊勢出身とされる)が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ杉風より添書など持たれて行われしなるべしと言う。と云う説である。
『芭蕉翁消息集』(芭蕉の真筆とされる。元禄三年説あり)北枝宛書簡(加賀金沢如本所蔵・『芭蕉年譜大成』
では元禄三年四月二十四日付けとある)には自己の火災の体験を伝えている。
「池魚の災承、我も甲斐の山里に引き移り様々苦労いたし候ば、
御難儀のほど察し申し候。云々」
とある。
北枝宛の書簡は年不詳ではあるが、芭蕉自身の口から甲斐の山里に云々とあり、彼の素堂の「芭蕉庵再建勧化簿」の著が天和三年九月である事から天和二年十二月の大火の後であろう事は推察出来るが確証はなく、芭蕉書簡の内の
「様々苦労いたし候ば」
は何を意味しているのであろうか。
☆〔芭蕉の甲斐での発句 行駒の麦に慰むやどりかな〕
又芭蕉の甲斐入りの折りに、寄寓されたとする万福寺境内には、万福寺住職三車によって「行駒の麦に慰むやどりかな」の句碑が建てられている。ある調査によれば真蹟であると云われている。又初狩村には芭蕉の最も信頼する杉風の姉が居たとする説も軽視するわけにはいかない。それを示す確かな歴史資料が存在しないからと言っても他の説も確証はない。一説を定説にする為の既定事実化は避けなければならない。可能性は残して後世の研究に委ねる事が大切である。
☆大虫(明治三年没)稿本『芭蕉翁年譜稿本』
不確かな資料しか持たない中で都留市史をはじめ地域の研究者は、定説化の為に様々な資料を掲示して論究している。しかし定説とはその相当部分が確たる歴史資料の裏付けが求められるが、それは見えない。中でも不確かな中で、芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな力を発揮したのは大虫(明治三年没)『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。
小林貞夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略はそれまで六祖五平という定かでない人物を頼っていたとする芭蕉の甲斐流寓の旧説を打破して、秋元家の国家老高山傳右衛門繁文(麋塒)を頼ったとする新説が大きな要因を占めていると思われる。
芭蕉は江戸大火の直後に浜島氏の家に仮寓していて、芭蕉が参禅していた仏頂和尚の門に居て、芭蕉の門弟でもある高山麋塒の帰国の際に芭蕉を誘い、さらに杉風にも相談すると、「姉が甲斐初雁村にいるので折々滞留して下さい」、との申し出に芭蕉も甘んじる事となる。この際、麋塒の別荘を「桃林軒」と号し、芭蕉はこの「桃林軒」を寓居と定め、心のまゝに城外にも逍遥し玉ふ、云々。
大虫の説と勝峯晋風氏の説が重なり揺るぎない史実として「芭蕉の甲斐谷村流寓」の定説化が進んだ。
☆〔困窮する当時の谷村藩〕
蚊足のついでに、秋元家を語る場合にはどうしても、延宝八年(1680)の郡内百姓一揆である。芭蕉流寓の二年前の天和三年(1683)には百姓総代が江戸町奉行に越訴して、受け入れられず翌九年(天和元年・1681)二月二十五日には谷村城下の金井河原に於いてはりつけ及び斬首と云う極刑で幕を閉じる。当時の谷村周辺の庶民生活の困窮振りが忍ばれる。騒動が続く中でも秋元家の躍進は進み、庶民の困窮振りはさらに悪化していたと推察できる。芭蕉の谷村流寓は、そうした時代背景の中で為された事なのである。
この時に高山麋塒が国家老であったかは分からないが、大変な時期に芭蕉は甲斐を訪れた事になる。芭蕉の書簡の「様々苦労いたし候ば」こうした時代背景を意識していたとすれば、妥当な文言ではある。この辺りの谷村藩の動向について触れている記事は少ない。
さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。
◆天和二年(1682)十二月二十八日
芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。
◆天和三年(1683)一月
当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和三癸亥さい旦」として記載。)
元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦)
◆春(一月~三月)五吟歌仙成る。
【連衆】芭蕉・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭
花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
◆夏(四月~六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。
一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。
◆この後の六月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。
◇天和二年
餅を焼て富を知ル日の轉士哉 麋塒
参考
烟の中に年の昏けるを
霞むらん火々出見の世の朝渚 似春
◇天和三年
浪ヲ焼かと白魚星の遠津潟 麋塒
雨花ヲ咲て枳殻の怒ル心あり 麋塒
《連衆》
露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・一笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》
人は寐て心ぞ夜ヲ秋の昏 麋塒
花を心地狸に醉る雪のくれ 麋塒
◇参考
花を心地に狸々醉る雪のくれ 『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』
これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。
次の歌仙は芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。
◇逗流中三吟歌仙二巻
『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。
「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】
胡草垣穂に木瓜もむ家かな 麋塒
笠おもしろや卯の実むら雨 一晶
ちるほたる沓にさくらを払ふらん 芭蕉
◇『一葉集』湖中編。文政十年(1827)刊。
夏馬の遅行我を絵に見る心かな 芭蕉
変り手濡るる滝凋む滝 麋塒
蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て 一晶
当時は春(一月~三月)夏(四月~六月)秋(七月~九月)冬(十月~十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作年と刊行年より以前となる。
私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作は何時行なわれたのであろうか。
『虚栗集』所載の句
酒債尋常往ク處ニ有人-生七-十古来稀ナリ
詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)哉 其角
冬-湖日暮て駕(ノスル)レ馬ニ鯉 芭蕉(以下略)
○改夏
ほとゝぎす正(ム)月は梅の花 芭蕉
待わびて古今夏之部みる夜哉 四友
山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧 素堂(以下略)
○憂テハ方ニ知リ 酒ノ聖ヲ 貧シテハ始テ覚ル 銭ノ神ヲ
花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩 一唱(以下略)
《連衆…芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》
○素堂荷興十唱(略)
○改秋
臨素堂秋-池ニ
風秋の荷葉二扇をくゝる也 其角
『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙
憂方知酒聖・貧始覚銭神
花にうき世我酒白く食黒し 芭蕉
眠ヲ尽す陽炎の痩せ 一晶
『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月~十二月)の句である。
芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。