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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月01日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

〔芭蕉と素堂それに甲斐〕

 

 さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっている。国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒にとっても素堂は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけは承知していた筈である。 九月、さて江戸に帰った芭蕉ではあるが、住む所が定まらず親友素堂の呼びかけで芭蕉庵を再建する。

 

山口素堂の『芭蕉庵再建勧化簿』(天和三年秋九月)。

 

芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。めぐみを数十生に待たんや。広く求むるは却って其おもひ安からんと也。甲をこのまず、乙を恥づる事なかれ。各志の有る所に任すとしかいふ。これを清貧とせんや。はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧也と。貧のまたひん、許子の貧。それすら一瓢一軒のもとめあり。雨をささへ、風をふせぐ備へなくば、鳥にだも及ばず、誰かしのびざるの心なからん。是草堂建立のより出づる所也。

 

 天和三年秋九月 竊汲願主之旨 濺筆於敗荷之下   山素堂

 

冬、ふたたび芭蕉庵を造り営みて(この年の句か?)

  霰聞くやこの身はもとの古柏   芭蕉(下里知足『知足齋々日記』記載)

 

 又甲斐流寓に同道したとされる芳賀一唱は、天和三年、歳旦帳を出してその春に江戸に下り、芭蕉等と一座し誘われてその夏を甲斐国に過ごした(『俳文学大辞典』、一唱の項、白石悌三氏著)と記載されている。

 






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最終更新日  2021年04月23日 04時50分34秒
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