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2019年05月04日
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カテゴリ:松尾芭蕉資料室

旅人芭蕉 俳壇の帰趨(きすう) 

 

資料 昭和8年 萩原井泉水氏著 神田豊穂氏発行 春秋社刊行 一部加筆

 

 天下の俳壇事はは、いつも芭蕉の展望のなかにあった。

然し、この頃ではその為に心を煩わされる事はなかった。

今の彼には所謂「派」というものに対する外的の意識は薄くなっていた。

彼はただ自分の信奉する「道」の内に深く潜んでいたからである。

 

はじめ延宝初年、彼が新風を唱え出した時に、

俳壇は貞徳風と壇林風とに二分されていた

 彼は季吟の門を出た関係から伝統的には古典派とも云うべき、

貞徳風に属するものであった

 その作風は自由で、大胆で因襲の脱却を旨として、寧ろ壇林風に近かった。

而してその派の人々とも交わっていたのだけれども、

彼は壇林を以ってしても、満足していなかった。

壇林の自由奔放に過ぎないのではあるまいか、

壇林の大胆は彼に奇警(きけい)を■っているものではあるまいか。

古風な無意味な因襲を脱却すべき事は勿論であるが。

その為に俳諧の精神その物羅■してしまっては致し方がないではないか。

俳諧に行き詰って動きのとれない貞徳風は、憐れむべきであるけれども、

これは咲ききった花が落ちるより他にはないように、早晩、自然に滅却するであろう。

独り自由大胆を旨とする壇林派は、蔓草のように勝手気儘に蔓延してゆく。

而して、それが為めに眞に正しいものゝの成長を毒することはあるまいか――。

と芭蕉はこうも疑っていた。

壇林派の主将西山宗因が江戸に下って、十百韻を興行してからは、

其の流行はすばらしくなった。

芭蕉は一度、宗因に逢った事もある。其の豪傑風な一癖ありそうな面魂は、

詩人というよりも、寧ろ親分の感じであった。

その頃から芭蕉は、どうしでも壇林派の外に一生面を出したいと、

そう思って心を潜めるようになった。

而して、暫く彼自ら、俳諧の新しい道、

新しい道と共に正しいと信じる道を探り当てゝからは、

その開拓のために全力を注ぐと共に、

壇林派を凌駕せねばならぬといふ意気に燃えていたのだった。

芭蕉は生来の温雅な気貿から、

進んでこれを立てるというような態度には出なかったけれども、

宗因の肥満した風采と尊大な態度とは、入道雲のように、

彼の眼前に立ち塞がっている思いをした。

 其の宗囚が天和二年に七十八歳を以って往生を遂げて後にも、

門下には済々たる人士があって、檀林の句風は衰えなかった。

然し、もともと一時の興味から、

又はほんの模倣的な心から附随しているもの多いこの派が、

主将宗囚なくして長く栄える訳はなかった。

壇林派中随一の才子であって、天満の社頭に二萬三千句を吐いて、

世人を驚かした事のある井原西鶴は、

宗囚が死んだその年に「好色一代男」という冊子を書いた。

これが非常に喝采を以って迎えられたので、

「好色二代男」、「好色一代女」、「好色五人女」「男色大鑑」

などという浮世草子が続けて書かれた。

西鶴は最早俳人ではなくて小説家に変わっていた。  

 

芭蕉は西鶴の評判は到るところで耳にしていた。

俳人の仲間では、西鶴を反逆児のように

――それには彼の盛名に対する嫉妬もあって――

云うのもあるが、

芭蕉には西鶴がこういう道へ出て行く事は、極めて当然の事に思われた。

一体、壇林の俳句といふものは「自然」よりも、

寧ろ「人間」に興味を持っているものだ。

「人間」と云っても人間の心にある真実ではなく、

人間社会世相、即ちそれは「浮世」を眺めて、いるだけなのだ。

喝采を得るだけで.だからそれは初めから俳句に――詩なるものではない。

後に残る名吟一つもないではないか。

壇林の生き方を押しつめれば、結局、西鶴のように浮世草子に行くのが本当だ。

それでこそ存分に突っ込んで世相も書ける。

また、存分に縦横の才を揮い得るというものだ。こう芭蕉は思った。

これまでとても、自然の懐へ、――自然の中核へと、

魂の指針を向けてみた芭蕉はこの度の旅で、思うさま吉野の(ゆう)𨗉(すい)に浸り、

また木曽の閑寂を味わった後に、俳句の向かう所は、自然の憐れさ、自然の淋しさ、

それこそ人間の魂の帰趨(きすう)であ所のもの――

を自分の心に植え、育てるという事にある事。

その外に俳句の境地はないという事に深い信念を持つ事が出来たので、

壇林派の生き方と自分達の生き方とに、いよいよはっきりとした差別を覚えた。

而して、今は檀林派の流行に対抗しようという気構えも、

幼いものに思われて来た。壇林派が如何に流行を極めようともそれは他の事だ。

自分たちは自分たちの正しい道誤らず進みさえすればよいのだ。

という風に淡々とした気持ちになりきっていた。

 

世間には、物の皮相だけを評判したり、

目の前の享楽を喜ぶ者が多いのだ――芭蕉は又こうも言った。――

そうした世間が、酉鶴の浮世草紙を面白がるのも当然だ。

これが当世風の文学というものであろう。

けれども、当世にも「詩」はなければならない、

その詩も古風な言葉の「みやびやかさ」を喜ぶものではなく、

庶民の魂を詠むみ生かすという意味での「詩」は、

まさに大いに興るべき時でなければならない。

万葉集の「心」を以て、而して、

現代の日常の「言葉」を以てする、此詩の道は新しい。

而して、そこに永遠の「いのち」が籠っているべき筈である。

日の輝く事、月の照ことに易る事のない以上、

自分の開く新しい詩の心には不滅のもがある。

芭蕉はこの信念を以って、独り深川の處にひとり心を澄まししていた。






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最終更新日  2021年04月22日 06時15分28秒
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