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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年05月10日
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穩々山靈臺寺碑(おんおんざんれいだいじ)
   (この碑は現在は無し) (龍華
山永慶寺碑/りゅうげざんえいけいじ)  吉保膺藩甲州之明年躍
然有所感乎中也則使人營壽
  蔵于城之東北乃反命曰甲之南實為富嶽吾東方之崑
  崙也崑崙之 支分條絡布 曼綿乎天下而天下之山
  悉崑崙之苗裔也而富嶽亦爾吾東方之山孰非富嶽之
  雲仍而甲之山獨為其所親生者焉乎爾甲之治治于甘
  棠地名一条甘棠之背環拱蔚然者謂之北山北山之支
  其最近治城者夢山也其北有池曰富士池迺富士川之
  濫觴也夢山 北走一里許是為茶堂越茶堂越之北突
  然隆者為 山 山之尾西指舊治城 然止者躑躅崎
  也春夏之交紅白之蕚 然點綴乎林石之隈機山之所
  賞咏也崎越之間負陰抱陽其地高敞無石而壌不勞钁
  耜闢山腹而址斷長補短廣袤三百弓一莖之艸可插殿
  堂門廡寮庫厨竈規而畫之悉在其中瞰治城于坤三里
  而遠機山之茶毘所在巽二百歩而近蓋百歳之後公之
  神之所居而安也若夫山水之献娯乎顧盻也蔽于東北
  而豁西南故白嶺横臥標勝風人之口御勅使之晃々乎
  夕日瀉銀湧汞由白嶺而北者農鳥也農牛也鳳凰也地
  蔵也駒嶽也折而南者楢田也七面也身延也由身延而
  近者為櫻嶺為弓立嶺為迦葉坂其水則子西之東環乎
  府城釜無之受武川而西来忘憂河之在其中以界駒與
  甘棠寔為樂士富士川之発源于此者衆川左右會轉多
  轉大以過鰍澤口而其名乃彰而乃層巒疊嶂倒 側崖
  渓澗相繆如繍斯糾苞灌喬樛遐邇枯〓鮮淡相錯如繪
  斯粲噴雲歙霧變幻相遂如鬼斯寂然其膏澤千里含孕
  萬彙民生所厚寶蔵聿奐天象之地勢相借虚景之與實
  用相依蓋又公之神之所為亘千萬世經緯斯邦而功業
  文章之托相為用也相攸者言與予所躍然乎中者有合
  也乃就其所址而址焉經始既定扁曰穏々山靈臺寺蓋
  取諸雲岩老師之所受識也故推雲岩老師爲開山第一
  祖子院三曰眞光曰靈樹曰理性割岩窪積翠両邑税入
  三百七十石以充香積之需請諸官府以籍定額一日偶
  遊老師舊菴一偈于其遣笈中有曰憶得當年出母胎法
  恩今在掛靈臺諸莫怪杓頭短付與渓流洗緑苔之知事
  皆前定老師固有以懸記也向所爲躍然者蓋有徴矣遂
   勒貞 繁之以銘々曰
天曰北辰 地曰富士 富士之山 天柱屹峙
・茫大洋 ・舶迷津 何以指迷 富士北辰
富士之崇 寔表寰中 何啻秀異 爲鎭日東
富士之陰 甲斐維國 與天爲黨 據海道背
東自筑波 蓐食九戒 碓尊・歌 輝映艸昧
四塞天府 毛龍攸産 豐聡驪駒 蜚駿往典
曩祖三郎 甘棠遺蹤 源族乃繁 武田是宗
桓桓機山 恢拓覇圖 胸洞韜略 目無孫呉
呑駿併信 争衝北越 東西二平 智竭力屈
雄據五州 遐邇喪・ 森然兵律 百世之範
鑽仰祖闢 廟貌恵林 耿々常存 不泯者心
我忝庶族 遭逢昭運 斷祀乍續 墜緒復舊
元宰職隆 少将階貴 冒寵國姓 聯芳國諱
雄藩 第 不失舊物 四郡版籍 一朝在握
朱章有赫 表以眞忠 華袞之榮 慊然省躬
我何爲者 靡徳以酬 景仰機山 靡徳以儔
玄元同均 信何彷彿 山関異境 機何合契
家世崇禪 法山殊調 一旦而寤 遂協攸紹
故劍遺冑 往々識主 山川土田 欣然吾・
邂逅乃爾 ・非因縁 因縁・時 花落果懸
既有来處 歸也曷無 其歸于何 城之 隅
躑躅之崎 機山遺愛 茲卜・・ 是經是界
寺稱靈臺 山曰穏々 穏乎穏乎 我所息偃
寺之東南 渓流・々 會同群壑 百里赴駿
浩澣汪瀁 ・名富士 富士之名 于山于水
山水・粹 蕨地乃靈 有詳斯發 ・然者瓊
美哉斯宮 貫幽于明 一念三千 一日三生
孰三孰一 孰後孰前 無往匪我 子孫萬年
  寳永三歳次丙戌月日
甲斐國主従四位下行左近衛權少将兼美濃守
  源朝臣吉保 撰

吉保、藩を甲州に膺くるの明年、躍然として中(こころ) に感ず
る所有り。則ち人をして寿蔵を城の東北に営ましむ。すなわち反命して曰く、
甲の南は実に富嶽と為す。吾が東北の崑崙なり、崑崙の 、条絡を支分し、天
下に布 萬綿す。而かも天下の山は、悉く崑崙の苗裔なり。而して富嶽亦爾
り。吾が東方の山、孰れか富嶽の雲仍に非ざらん、而かも甲の山、独り其親生
する所の者と為す、焉(いずくん)ぞ然らんや。甲の治。甘棠に治す、地名は
一条、甘棠の背、蔚然として環拱する者、これを北山という、北山の支(え
だ)、其最も治城に近きは夢山なり。其北に池有り、富士池という、すなわち
富士川の濫觴(らんしょう) なり。夢山よりななめに北走す
ること一里許り、是を茶道越と為す、茶道の越の北、突然隆を日咎(ひかげ)
山と為す。日咎山の尾、西のかた旧治城を指し、 然
として止まるは、躑躅崎なり。春秋の交、紅白の蕚、 然として林石の隅に点
綴するものは、機山の賞咏する所なり。崎越の間、陰を負い陽を抱く。其地は
高敞、石無くして壌(つち)こえ、钁耜を労せず、山腹を闢いて址(もとい)
とし、長を断ち短を補う。廣袤
三百弓、一茎之艸插すべし。殿堂と門廡と、寮庫と厨竈と規して之を画けば、
悉く其中に在り。治城を坤(ひつじさる) 瞰(みおろ) せば、三里は遠し。
機山の茶毘所は巽に在り、二百歩には近し。
蓋し百歳の後、公の神の居りて安んずる所なり。若し夫れ、娯(たの)みを顧
盻(こはん)に献(さゝ)げんか、東北は蔽(おお)われ、而かも西南は豁
(ひら)く。故に白嶺は横臥し、風人の口に標勝さる。御勅使の晃々たる、夕
日には銀(しろがね)瀉(そそ)ぎ、汞湧(みすがねわ)く。白嶺より北なる
は、農鳥なり、農牛なり、鳳凰なり、地蔵なり、駒嶽なり、折(まが)りて南
すれば、楢田(奈良田) なり、七面なり、身延なり。身延よりして、近きは
桜嶺
(とうげ) たり、迦葉阪(かしょうざか)たり。其水は則ち子酉
の東、府城を還る。釜無の武川を受けて西より来たり、忘憂河の其中に在り、
以て駒と甘棠とを界いす。寔に楽士たり、富士川の源を此に発すれば、衆川左
右より会する。転(うた)た多く転た大いに、以て鰍沢口に過る。而かも其名
乃ち彰われ、而かも乃ち層巒疊嶂、倒 側崖、渓澗相繆い繍の斯に糾(あざ
な) えるが如し。苞灌喬
樛、遐邇枯〓、鮮淡相錯(まじ)わり、絵の斯に粲(あざや) か
なるが如し。雲噴き霧を歙め、変幻相逐うこと、鬼の斯に寂まるが如し。然か
も其膏沢は千里、萬彙(ばんい) を含孕す。民生厚き
所、聿奐(いつかん)を宝蔵す。天象之地勢と相借り、虚景之実用と相依る。
蓋し又公の神の為す所、千万世に亘りて、斯邦を経緯し、功業文章の相を托し
用を為すや、相する攸は予と与に言う所、中者(こころ) に躍然として、合
する有るなり。乃ち其址とする所に
就いて址とす。経始既に定まり、扁して穏々山霊台寺と曰う。蓋しこれを雲岩
老師の受識する所に取るなり。故に雲岩老師を推して開山第一祖と為す。子院
三、曰く霊樹、曰く眞光、曰く理性、岩窪・積翠両邑税入三百七十石、以て香
積の需に充て、諸官府に請い、以定額を籍す。一日、偶々老師の旧菴に遊び、
一偈を其遣笈の中に獲る有り、曰く、憶い得たり当年母胎を出で、法恩今在り
霊台に掛く。諸人怪しむ莫かれ、杓頭の短きを、渓流に付与して緑苔を洗う。
と。乃ち知る、事皆前に定まる、老師固より以て記を懸くる有るなり。向(さ
き)の躍然と為す所は、蓋し徴有り、遂に貞 に勒し、之に繁くるに銘
を以てす、銘に曰く、
 天北辰に曰い、地に富士と曰う。富士の山、天柱のごと屹峙す。 ・茫たる
大洋、・舶津に迷う。何を以て迷を指す。富士と北辰と。 富士の崇き、寔に
表寰中に表たり。何ぞ啻に秀異なるのみならん や。爲に日東を鎭む。富士の
陰(きた)甲斐維れ国たり。天と与に党 を為す。海に拠り背を道とし、東は
筑波よりす。蓐食九たび戒む、 碓尊の・歌は艸昧に輝き映ず。四塞の天府、
毛龍産するところ、 豊聡の驪駒(りく)は、駿を蜚ぶの往典。曩祖は三郎、
甘棠の遺蹤、 源族乃と繁り、武田是れ宗たり。桓々たる機山、恢いに覇圖を
拓 く、胸に韜略を洞(つらぬ) き、目に孫呉無し。駿
を呑み信を併せ、 衝を北越に争う。東西二つながら平らぎ、智竭き力屈す。
五州に 雄拠し、遐邇胆を喪う。森然たる兵律は、百世の範たり。祖開を 鑽
仰し、恵林を廟貌とす。耿々として常に存し、泯びざるは心な り。我れ庶族
を忝くし、昭運に遭逢す。斷祀は乍ち続き、墜緒は 旧に復る。元宰職は隆
く、少将階は貴し。寵は国姓を冒し、芳は 国諱に聯なる。雄藩 第、旧物を
失しなわず、四郡の版籍、一朝 握に在り。朱章赫として有り。表わすに眞忠
を以てす。華袞の栄 慊然として躬を省る。我何する者ぞ。徳の以て酬いる靡
し。玄元 同均、信ずること何ぞ彷彿たる。山関境を異にするも、機、何ぞ 
契を合する。家は世々禪を崇び、法山殊に調う。一旦にして、寤 め、遂紹ぐ
攸(ところ) に協う。故劍と遺冑 
往々にして主を識る。 山川と土田、欣然として吾をむかう。邂逅すること乃
ち爾り。孰 れか因縁に非ざる。因縁孰れの時ぞ、既に来処有り、歸るや曷ん
 ぞ無からん。其何くにか歸る。城の 隅、躑躅が崎。機山の遺愛、 茲
に・・を卜す。是に経し是に界す。寺を霊台と称し、山を穏々 と曰
う。穏か穏か、我が息偃する所。寺の東南は、渓流 々たり。 群壑を会同
し、百里にして駿に赴く。浩澣たり汪瀁たり、ならび て富士と名く。富士の
名、山にし水にす。山水粹をあつむ。蕨の 地の霊たり。祥有り斯に発す。・
然たる瓊。美しきかな斯の宮、 幽を明に貫く。一念三千、一日三生。孰れか
三孰れか一、孰れか 後孰れか前。往くとして我に匪るべし。子孫万年なら
ん。
  
寳永三歳は丙戌の月日
  甲斐國主従四位下行左近衛權少将
兼美濃守源朝臣吉保撰す











『絹本着色達磨像図』 韮崎市清哲町常光寺所蔵
   平成九年十二月十五日 県指定

 柳沢吉保が狩野常信の描かせたものを意志により常光寺に寄進したもの。達
磨図は嵩山少林寺において九年間面壁座禅したときの姿を描いたものと言わ
れ、両目が画面の左右、中央いずれからも視線があいので、俗に八方睨みの達
磨といわれる。

『勧修作福年仏図説』 韮崎市清哲町常光寺所蔵
   平成九年十二月十五日 県指定

 柳沢吉保の念仏の修業の成果を示した『勧修作福年仏図説』で、吉保の子吉
里より常光寺に寄進されたもの、裏書に「念仏百万、図式により其の数を填
め、装いし一幀となし、以て武隆山常光寺に寄す、正徳四年甲午の秋源吉保と
ある。吉保の敬虔は性格と熱烈な求道の態度を実証する資料である。





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最終更新日  2021年04月21日 17時48分03秒
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