カテゴリ:山梨(甲斐)の御牧(みまき)の全貌
山梨県の馬に関する参考資料 柳田國男氏著より引用
甲州にては東山梨郡松里村大字松里上井尻組の諏訪明神は例祭旧暦の七月なり。七月一日の日より始めて此の日まで氏子の物忌最も厳重なり。其の間は声高、普請及び縄目を結ぶことを戒め、又祭の日には葦毛の馬を牽き出すことを禁ず。
諸国の名山に駒ヶ岳と云うもの多きは善く人の知る所なり。云々(中略)駒ヶ岳に駒の住むと云う説は、北海道の渡島の駒ヶ岳にも在す。
奥州の駒形神は成程古し、神名帳の発表より五十余年前に、既に神階を正五位に進められたる記事あり。《文徳実録仁寿元年(851)九月二日条》箱根の駒ヶ岳に祀られる駒形権現の如きも、安貞二年(1228) の火災の記事に、それより又五百年前の創立とあれども(吾妻鏡)云々
甲州などの馬頭観音の石像は、今も馬の首を頭上に戴きてはあれど、頭より下は真の観音に成り切って、馬の首は追々小さく、殆ど丁髷ほどに退化しまるもの多しと云えり。(『甲斐の落葉』)
最も古き記述によれば、太子の愛馬は四脚雪の如く白く極めて美しき黒駒なりき。推古女帝の第六年の始めに、諸国より献上せし数百頭の中に於いて、太子は能く此の黒駒の駿足なることを見現わしたまう。同じ年の秋太子は黒駒に召し、白雲を躡みて富士山の頂に登り、それより信濃・越路を巡りて三日にして大和に帰らせたまう。(『扶桑略記』) ◎甲斐の黒駒は此の馬の名には非ざりしも、黒駒は早くより甲州の名産にして、且つ俊逸の誉高かりしものなり。
甲斐の黒駒の遺跡に至りては、太子に対する崇敬と伴いて更に弘く国内に分布せり。(日本書紀雄略天皇十三年九月条)
先ず本国の甲斐に於いては、東山梨郡等々力村の万福寺の門前に太子の憩いたまいしと云う馬蹄石あり。此の寺今は真宗にしてもとは天台宗、而も聖徳太子を以て開基とする。(『本朝国語』)四つの蹄が四つながら鮮かに現われると云えば(『甲州噺』)勢いはずみに打ち込みたるものにあらずして、静かに且つ確実に印したる痕跡なり。同じく東八代郡日影村字駒飼宿の駒飼石は、五間に三間の石の面に二十一箇所の足跡ありき。上宮太子此地に於いて黒駒を飼いたまうと伝えたり。此石は享保年中笹子川の洪水の障りとなりて多くの民家を損ぜしより、之を割りて川除けの石堤を用い今は其の片影をも留めず。 (『甲斐国志』)
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最終更新日
2021年04月18日 13時51分25秒
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