カテゴリ:山梨(甲斐)の御牧(みまき)の全貌
御牧の分布は、それぞれ地域的に結ばれた四カ国に固まっていることは、特に注目に値する。 なお上野原町には牧野牧というのがある。地名にも牧野がある。さらに注目すべきは相模牧で秋山村の一部が含まれ牧野地名がある。天慶四年(941)に官符を下して国ごとに五十疋の貢進するように仕組みが変わり、諸国に牧が乱立した。云々 三御牧の所在については国志に記載があるが、それによると穂坂の牧は穂坂・(明野)小笠原、上手、朝神村にまたがる主として茅ケ岳山麓に展開する丘陵地帯を占めていた。 牧場に最も関係の深いと思われる地字を、慶長・寛文・延宝・貞享等の検地帳等から拾いだして見ると本村一帯には今もなお往時の俤を伝える遺跡が所々に残っている。 (抜粋)
馬上坂・馬下り坂 正楽寺組から穂坂の三之蔵へ抜ける山坂の三之蔵分を馬上坂といい、正楽寺組分を馬下坂(ばくさか)といっている。 若草町誌 甲斐には二つの小笠原地名があるが、中巨摩郡櫛形町にあったのが原小笠原荘、明野村小笠原は山小笠原荘の違名であると考えられる。原小笠原荘が小笠原氏の発祥地であり、(略)原小笠原荘が櫛形町小笠原付近であった。 富士見町誌(長野) 平安時代で明らかになっていることと言えば、甲斐穂坂牧の御料馬を京都に運ぶのに、伊那へ向かう御所平峠が利用されたということである。(中略)恐らく、甲斐之駒牽は穂坂牧、真衣野牧、柏前牧と貢馬を集め、この古道を利用し最も近い峠を越えて京都に上ったものと推測される。(略)「武川御牧」が真衣野牧の後身であるとすると、十二世紀の末から十三世紀の前半にかけて、規模が縮小しても鎌倉時代まで駒牽が続いていたことが知れる. 望月の牧地 望月の牧地は、千曲川と鹿曲川で囲まれた御牧原台地に否定されている。(略)現在は北御牧村・望月町・浅科村・小諸市にまたがっている。御牧原の南部、スガマ地籍には菅(スゲ)も自生する湧水があって、乾燥地御牧原の中ではオアシス的な地域である。ここには須恵器を焼いたいくつかの窯跡が残り、平安時代初期とされる信濃最古の鉄鐘(重文)が出土している。高良社は高麗社で、このあたり牧場開設にかかわりのあった朝鮮半島からの渡来人の社といわれている。(略)牧場を面する野馬除は、断続的にその跡をとどめている。この跡はたどると、それは百沢北方から東北にのびる尾根にそって、富士塚の三角点に至り、それより西北方向へスガマを貫き、御牧中央の四つ京から、とや原を経て下之城集落の東に達している。この間、富士塚より約御キロメ-トルはほぼ直線的に通じ、いまも所々に野馬除の隍や土居跡をとどめている。(略)約千町歩が望月の牧ということになる。 塩野牧 塩野牧の名は、塩野(御代田町)の集落名にその名をとどめている。(略)馬柵口の地名は重要な意味を持っている。馬柵口を「古昔柵口」(ませぐち)と称すといい、村社を柵口神社としている。(『長野県町村誌東信編』) 軽井沢町沓掛駅の北方四00メ-トル、東は離山下の小学校裏付近から西は借宿・追分付近に達する東西一直線に断続して連なる低い「駒飼の土手」の跡が残っている。(略)同じく軽井沢町の地籍には馬取萱(馬取が野)・馬越原・馬越などの地名や駒形神社なども所々に残っている。
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最終更新日
2021年04月18日 13時49分49秒
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