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2019年05月15日
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柳沢吉保、家督をつぐ

 

(「武川村誌」一部加筆)

 

吉保は、前記のような事情から、生母とは乳児の時期に別れ、嫡母青木氏に育てられた。やがて七歳を迎えた寛文四年十二月十八日、通称を弥太郎、諱を房安、また主税といった。

この日、父安忠は吉保を伴って神田の屋敷に参殿し、主君館林侯徳川綱吉に拝謁した。綱吉は三代将軍家光の四男、正保三丙戌年(一六四六)の生れで当年十九歳、官位は参議従三位右近衛中将、右馬頭、館林二五万石の城主であった。この面謁の時、綱吉はひどく吉保が気に入り、自ら立ってその手をとり、新築間もない館中を連れ歩いたといわれる。元禄文化史上の二立役者の運命的な出会いであった。

延宝元年(1673)十一月十五日元服、この。時に通称を保明と改めた。時に年十六歳。同三年七月、年七十四を迎えた安忠は、嫡男吉保が十八歳になったのを機に隠居を願い出て許され、家督を吉保に譲ることになった。

吉保は小性組番士を命ぜられ、中根正弘の組に編入された。小性は小姓とも書き、将軍側近に肩従して雑務を処理する臣をいった。

延宝元年十二月、吉保は武川衆出身の旗本、曽雌盛定の二女で、当年十五歳になる定子との間に婚約が整った。曽雌盛定の妻は吉保の胆父信俊の姪孫に当り、好都合であったらしい。

延宝四年二月十八日、十九歳の吉保と十六歳の定子との間に華燭の典が挙げられた。

延宝五年、吉保の嫡母青木氏が病床に臥する身となった。吉保は誕生以来二〇年、青木氏を実母と信じて孝養の限りを尽して来たが、いよいよ危篤と聞くと、病室を離れずに着病し、安んじて重病人の看護を托せるというので、吉保の幼少の頃よりの乳母を、わざわざ呼び寄せて看護に遺憾なきを期した。しかし、吉保の尽力もその甲斐なく、六月十六日に没した。吉保の悲歎はたとえんかたなく、市ケ谷の月桂寺において丁重な葬儀を執行した。法名は恵光院殿歓秋妙喜大禅定尼という。






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最終更新日  2021年04月18日 06時28分43秒
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