カテゴリ:柳沢吉保 山梨北杜資料室
柳沢吉保 側室飯塚染子の参禅記録、『故紙録』
(「武川村誌」一部加筆)
吉保の『護法常応録』を述べるに際し、ぜひ紹介しなければならないのが、その側室飯塚染子の参禅記録、『故紙録』についてである。 吉保の側室飯塚染子は、柳沢氏の采地上総国市袋村の郷士飯塚正次の三女で、天和元年吉保がその生母佐瀬津那子を柳沢家に迎えた時、その侍女として伴って来た女性である。 吉保は正室の曽雌氏を要って以来、六年を経過したがまだ子がないので、曽雌氏とはかって染子を側室に入れたのであった。染子は才色兼備で、しかも心を禅道に潜め、吉保が師僧に参禅する際には、自身も参禅につとめ、問答や垂示の記録をもとった。それらに自分の思索工夫の跡を加え二巻の書冊としたのが、前記の『故紙録』である。その冒頭にいわく、
我レ、七八歳ノコロ、タマタマ醍醐帝ノ泥梨(地獄)ニ堕チ給フ双紙ヲ見テ、フト怪シミテ爺(ちち)ニ問ヒシハ、帝王ノ、何ノ故ニカク畏ロシキ呵責ニ逢ヒ給フゾ。ト尋ネケレバ、爺細ヤカニソノイハレヲ物語リシ給フ。(中略)九歳ノトキ不幸ニ母ヲ喪ヒテ、年長ケタル兄弟ノ、嘆キ悲シムヲ見テ、爺二問ハク、ソレ人、イカナル善ヲ修シテ、泥梨ノ苦シミヲ免レソヤト。爺、教へ給フハ、タダ一心ニ弥陀ノ名号ヲ唱ヘヨ。如来ノ誓願、ナド空シカルべキヤ (下略)と。
条理整然、その内容を窺うことを得よう。その威文も味わいのあるもので、いわく、
一大蔵経ハ悉ク反故紙トカヤ、古徳ノイヒケル。我レ今、ソコバクノ閑言語ヲ集メテ、一部ノ故紙録トス。或ルハイフ、牆壁ニハリ、醤(ひし)ヲ覆ハソト、或ルハイフ、蔵中ニ納メ、蠧(しみ)ノ糧トナサソト。彼モ好シ是モヨシ。好シ、他ノ処分スルニ一任ス。橘染子威
まことに、徹底の境地というべきであろう。
柳沢吉保の念仏行(「武川村誌」一部加筆)
吉保の信仰について、特記したいことがある。それは、吉保の念仏行についてである。韮崎市清哲町青木の常光寺に、吉保の嫡男吉里が亡父の遺命によって寄進した「勧修作福念仏図説」と名づける紙本彩色の掛軸がある。 その由来は、軸の裏に吉保の自筆と伝える次のような裏書のあることによって知られる。
念仏百万、図式によりその数を填む。装して一煩と為し、以て武隆山常光 寺に寄す。 正徳甲午の秋 甲斐の前藩主 羽林次将 源吉保
正徳甲午は同四年(一七一四)の干支で、羽林は近衛府の唐名、次将は少将。吉保の当時の官名は左近衛権少将であった。「勧修作福念仏図説」というものは、辻善之助博士の論文、「柳沢吉保の一面」によれば、黄粟宗本山京都市宇治の万福寺塔頭、真蔵院に、吉保と夫人曽雌氏の寄進に在るもの各一幅、計二幅が所蔵されているという。したがって、常光寺所蔵の一幅と合わせて計三幅が現存しているのであるが、他にその存在を聞かないので、これら三幅の価値は貴重である。 この「図説」というのは、版画で、その中央に阿弥陀三尊を描き、その周囲に念仏の図説と、念仏の功徳に関する偉大士の説を記している。 偉大士は、六世紀ごろの中国の高僧で、転輪蔵の発明者である。図説の周囲に、五色をもって圏を連ねて幾段にも画してあり、圏の総数は箇である。その下段に、
此ノ図、震旦ニ於テ世ニ行ハルルコト、スデニ久シ。大清ノ康煕年中ニ至リ、旨ヲ奉ジテ天下ニ頒チ行ヒ、普ネク念仏ヲ勧化ス。日(本)国ニ未ダ此ノ図有ラザルヲ以テ、今、錆刻シテ流通シ、天下ノ人ヲシテ念仏修福シ、同ニ浄土ニ生レシメバ、則ハチ利益量リ無ケン。念仏千声ニシテ一圏ヲ填メ、白黄紅青黒、五次ニ填ムベシ。 宝永甲申重陽 支那 独湛瑩識ス
とある。宝永甲申は元年(一七〇四)である。重陽は陰暦九月九日、支那は当時清朝、独湛螢は黄葉山万福寺の第四世、独湛瑩である。 この図説の用紙は、はじめ唐紙であったが、当時、唐紙は輸入品として高価なので、吉保は甲府の菩提所、永慶寺に依頼して丈夫な和紙に複刻させ、自身が施主となって費用を寄進し、普ねく念仏行者に頒布して勧修した。 常光寺所蔵の「図説」の中央、阿弥陀三尊の下に蓮座があり、蓮座と三尊との間の空き間に、「念仏弟子保山」と自署し、また右側の偉大士の説の末句、回向浄土求願往生、の下に「善人保山受持」とあり、その下に長方形の印が押捺されている。 印文に「竜華山永慶寺蔵板印施」とある。つまり永慶寺蔵版で、念仏者には無料で印刷、施与したものであろう。「勧修作福念仏図説」を、念仏者はどのようにして完成するか、用紙の中央阿弥陀三尊を囲んで長方形に連ねられた一、〇〇〇箇の白圏に、一、〇〇〇遍の念仏ごとに白・黄・紅・青・黒の色の順に、一箇ずつ白圏を填めて行くのである。こうして一、〇〇〇箇の白圏を残らず填め尽した時、念仏百万遍を成し遂げたことになるのである。 吉保は、元禄から宝永にかけて徳川幕閣の大黒柱のような地位を占め、身辺は多事を極めた人である。それにもかかわらず、常に禅の修行につとめ、一つの公案に二〇年近くも工夫を凝らし、遂に大悟して師の印可を得た。そして晩年に至っては念仏行に励み、「念仏図説」を二幀完成したのである。吉保の純粋熾烈な求道の態度こそ、仰がるべきではないか。
また、正室曽雌氏が念仏行を全うして、菩提所である萬幅寺塔頭真光院に納めた「念仏図説」の裏書には、
称名百万遍、図説に遵ひてその数を満たし、却ち真光禅院に鎮む。 正徳癸巳の仲秋 前の甲斐藩主松平吉保の室人曽雌氏
とある。正徳癸巳は同三年の干支で、仲秋は八月をいう。ちなみに、曽雌氏は同年九月五日に没しているから、この「図説」寄進ののち僅々一か月ほどで世を去ったわけである。曽雌氏を喪った吉保の悲歎は譬えんにものなく、その夜から五日間を費やして亡妻のために長編の挽歌を草し、葬送の日、自身でこれを詠じ、会葬の大名旗本ら、泣かぬはなかった。 その吉保も、正徳三年春、曽雌氏より先に一幅を完成し、真光院に寄進した。裏書に、
念仏百万、専ら図式に依り、其の数を填め畢んぬ。今装して一偵と成し、 以て真光院中に寄するのみ。 正徳癸巳の春 前の甲斐藩主羽林次将源吉保 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月18日 06時26分29秒
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