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2019年05月15日
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柳沢吉保の菩提寺 韮崎市 常光寺

吉保は、曽雌氏生前の正徳三年癸巳の春、すでに念仏百万遍を成就し、その一幅を真光院に寄進し、その秋、曽雌氏に先立たれたのであるが、ますます勇往精進して翌四年甲午の秋、さらに一幅を成就し、遺命して常光寺に寄進させたことは、既述の通りである。

吉保が、常光寺を崇敬するのは、この寺が青木家の菩提所だからである。というのは、吉保の祖父柳沢兵部丞信俊は、武川衆の旗頭青木尾張守信立(信親)の三男であるが、主命により柳沢家を継いだため、柳沢家にとって青木家は宗家である。しかも柳沢家本来の菩提所である柳沢村竜華山柳沢寺が、水害など不幸続きのため寺運は衰徴の極に陥ったため、当時江戸に邸を賜わっていて、先祖の地とはいえ甲州柳沢村の柳沢寺を再興するに及ばずと考えたものであろう。それに柳沢氏はしばしば青木氏から嗣を迎え、最近では吉保の曽祖父信俊が青木氏の出身であるから、祖先といえば青木氏につながるので、青木氏の菩提所常光寺をもって柳沢氏の菩提所を兼ねしめたらしい。

というのは、常光寺位牌堂には、吉保寄進にたる青木家の系図が安置されていて、鼻祖新羅三郎義光より第十七世青木尾張守信立までを整然と記しているのである。このように常光寺を菩提寺同前に崇敬した吉保は、宝永元年に甲府一五万石に封ぜられると、翌三年儒臣荻生徂徠を新封の地甲斐に派し、領内の地形産業、世態、人情を見聞させ、これが復命を命じた。その結果が『峡中紀行』『風流使者記』である。いま、『峡中紀行』によって青木村常光寺の状況を瞥見しよう。

 

『峡中紀行』荻生徂徠、吉保の故地を訪ねる

 

(「武川村誌」一部加筆)

常光寺に至る。門前皆田なり。田を隔てて人家数十、簇をなす。却ち青城村なり。堂に登り藩主先公の神主に謁して後、方丈に往て話し、遺事三条を得。機山の時の旧封券を観るに、人名門の字皆間に作る。蓋し古時は爾りと為す。花押亦時様の者に非ず。古撲頗る趣有り。寺憎を拉し先公の墳墓を覧る、碑の制、諸(これ)を今世都下士庶所用の考に比するに極めて短小なり。其の時俗想うべし、字皆剥落して、復た辞を存せず。寺を出づれば則ち先公の荘在り。

〔徂徠の誤解〕

というもので、先公とは青木信立をいう。徂徠の一文は、当時の常光寺を叙して彷彿たらしめるものである。神主とは儒教式葬儀の際、死者の官位・姓名を書いて祠堂に安置する霊牌で、仏教でいう位牌である。人名門の字、皆問に作る、蓋し古時は爾りと為す、とは徂徠の千慮の一失で、人名の問は、問答の問でなく門尉の合字の問であることを知らなかったのである。関ケ原以後、僅か100年を経たばかりなのに、徂徠ほどの学者すら武人の官名を誤解するに至ったのである。









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最終更新日  2021年04月18日 06時25分45秒
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