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2019年05月15日
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吉保の修養 吉保と綱吉の宿命的な出合い

 

(「武川村誌」一部加筆)

 

吉保は、七歳のとき、父安忠に伴われて神田屋敷に参候し、主君綱吉に拝謁したが、綱吉は初対面の吉保がたいへん気に入り、自ら立って吉保の手を取り、新築の館中を連れ歩いたという。吉保と綱吉の宿命的な出合いは、この日で、強く印象に残ったらしい。

吉保は万治元戊戌年の生まれで、綱吉は正保三丙戊年の生まれ。十二歳離れるがともに戌年生である。相性が合ったというのであろう。綱吉の学問は大名芸の域を出でないが、歴代の将軍中でも、好学の点では綱吉の右に出る者はなかったようで、幕政は文治主義に転換していた。

延宝八年、綱吉が将軍職に就任すると、同年十一月三日、吉保は小納戸役になった。この役は若年寄支配で、将軍身辺の雑務を担当する。髪月代・膳番・庭方・馬方・鷹方・筒方などに分れ、奥小姓同様、重要な一役であった。

吉保の誠実な奉公ぶりは綱吉の期待に沿い、満足した綱吉は、翌る天和元年四月、吉保を布衣の列に抜擢し、三〇〇石を加増して八三〇石とした。その上で同年六月三日、吉保に学問の弟子となることを許した。

時に吉保二十四歳。同月二十三日綱吉は自筆の曽子像に、「十目所視、十手所指、其厳也」と讃を着けて、内府綱吉筆と落款し、吉保に賜わった。

綱吉は、翌天和二年一月十一日の書初めに

 主 忠 信                内府綱吉

人はただまことの文字を忘れねば いく千代までもさかゆなりけり

 と書いて吉保に賜わった。吉保はこれに深く感激し、その実践に努めたのはもちろん、嫡男吉里はもとより子女に懇諭し、また家臣らに対しては主忠信の精神を服膚して主君を忠諌し、ゆめにも阿諛の言動のないよう戒めた。

吉保が、綱吉の忠実な側近の臣であったと同時に、その儒学の門人であったことは、たとい綱吉の学問がそれほど深遠なものでなかったにせよ、好学の主君が折に触れて腸わる箴言は、吉保を啓発するところが大きかった。

綱吉は、ついで元禄元年六月、「過則勿憚改」(過ちては、すなわち改むるに憚ること勿れ)の五字を書いて吉保に賜わった。 

謹直な吉保は、これを拳々服膺し、師であり、主君である綱吉の恩誼に報いようとつとめたのであった。

吉保が、常に修養に努めたことは、その例に乏しくないが、ここに彼の伝記ともいうべき『楽只堂年録』の一、二節を引用してみよう。

 

昔、孔子の椚人に子漉という者あり。魯の武城の宰となりし時、孔子、能

き人を得ぬるかと尋ね給いければ、瀘台減明という者候、路を行くに必ず

本道よりして、近道を行かず、公用に非ざれば、ついにそれがしが家に来

らず候とて、是をもって能き人と定めしたり。古人の風儀大方かくの如く

に候、是れ式の事にて候えども、此の両事にて減明が心ざしざま正しく、

大様にして身の便を求めず、才を専らとせず、己れが心を枉(ま)げて人に諂わぬところ、顕われ候。今時、かようの者の候は鈍なる行為のように申すべく候、又人の頭として、其の下の者、我が方へ公用の外に付届けこれなく候わば、不快に思うべきところ、流石孔門の学者とて、是れを以て称美するにて、子游が大様なる心の程も知られ候、此くの如くにてこそ、下の賢否も明白に知れ申す筈に候、それがし論語を読み候て、此所に至り候て、大方感涙を押さえ候、それがしが家臣たる者は、家老、頭分は子游を鏡に致し、諸士は減明を模範に致すべく候。

今度異見の趣き、一々左に書き著わし、各左に申し聞かせ候故に、自今以

後それがしも、各々と互いに善に進み悪を改め、各々は古の忠臣義士にも

恥じず、それがしも名君賢主の跡を慕い、後代までも君臣ともに令きため

しにひかれ候ようにと、真実に存じ入り候、各々もそれがしの此の心底を

能く能く推察いたされ、常々意見を加えられ、諾事差引を頼み申し候ほか、

他無く候、勿論各々も其の心得肝要に候、然れども、古の聖賢の君さえ群

臣の諌言を求め給う。況やそれがし如きの老、先祖の積善により君の位に

登り、各々の上に居るといえども、生質不肖にして君たる道に違い、各々

の心に背かん事を恐れ入り存じ候、其の身の行ない、領国の主に違い、国

政諸事大小によらず、少しもよろしからぬ義、又は存じ寄りたる義は、遠

慮なく其のまま申し聞けべく候、其のうち国政はかりそめにも民心にかか

わり候えば、州事も大切なる義に候間、各々の差図を承る筈に候、各々も

遠慮あるべき義にもあらず候、但し身の上の義、右の通り申し渡し候ても、

其の気に障り申すべく侯と、執計らい申され候義もこれ有るべしと、心も

となく侯、又は生質不肖に候間、かように申し候ても吾が身の悪しき事を

強く諌められ候わば、不快の顔色見え申す義もこれあるべく候間、重ねて

いましめ申され候ように致したし申すべきや、其の段は随分嗜み申すべく

候、万一其の味見え候とも、始終の心底は弓矢神の誓いをもって只今申す

通りに候、すべて其の心底内外の義につき、已が悪き事は人に隠し申す義

はこれなく候間、見及び聞及び申さるるところ、何事によらず機嫌を見は

からず、諌言を頼み申し候、たとい其の事たしかたらず候とも、虚実は構

わず候。游興を好み候か、女色に耽り候か、奥方騎りにこれ有り候か、已

が威勢を募り候か。賞罰正しからず候か、賢臣を遠ざけ、俵臣を近づけ候

か、文道に疎く候か、武備を忘れ候か、臣下百姓に至るまで憐懸これなく

候か、作事な好みて人力な破り候か、器物を翫び候か、金銀な費し候か、

斯様の義は自分存じ寄りの分に候、此の外にも思い寄られ候事これ有り候

わば、対面の節、直きになりとも、又は書付けにてなりとも差し越さるべ

く候、秘し申し度き事に候わば、封じ候て尤も宜しく申すべく候、取付け

の者少しも延引候わば、不届きたるべく候、勿論一覧の義に及ばず、其の

儘にこれ有るべく候

 

以上の二例、長文をいとわずに引用したのは、これらの内容によって、吉保という人物がいかに大名ぶらず、真理の前には謙虚な修行者の一人として、君臣の隔てなく同じ土俵において切磋琢磨し合い、もって人間味の溢れる藩風の育成に努めたことを紹介したのである。

これまで、吉保に対する史家の人物評価は、酷に過ぎた。それは、彼の余りに速い栄達に対する政敵の嫉妬に基づく中傷が主軸をなし、吉保は、天成の好学の土であったが、館林侯綱吉の学問の弟子を命ぜられると、水魚の交りというか、両人の学問上の接触はきわめて円満で、吉保の学業は目に見えて上達した。

綱吉は、自身の眼識に狂いのなかったことに満足し、天和二年正月一日の読書始めの式に、吉保に指名して『大学』を読ませ、三綱領に至った。これは予告もない突然の指名であったにもかかわらず、吉保の坐作進退はよく礼に適い、悠揚迫らず終始し、綱吉はじめ陪聴の面々は、ことごとく感歎の声をもらした。綱吉は、この上なく満足して、以後は年々の読書始めには吉保が奉仕するのが例となった。

 江戸幕府が、政治の理念を大学の三綱領に求め、綱吉の好学心がこれを推進し、元禄文運の興隆を致したことは、政治家として評価すべきであり、これを補佐した吉保の功績も軽視できない。元禄元年(一六八八)六月三日、綱吉は次に示すように、過則勿憚改の聖語を大書し、これに宋の大儒程明道の語を添え書きして吉保に賜わった。

 過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ、程子いわく、学問の道は他な し、その不善を知らば、すなわちすみやかに改め、もって善に従うのみなり。

右は聖言なり、これを書きて出羽守源保明にたまいもって教戒を示す。

慎みてこれを守るべし。

内府綱吉(もと漢文)

時に綱吉四十三歳、吉保三十一歳であった。

 






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最終更新日  2021年04月18日 06時25分23秒
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